明確に刑法に触れて有罪判決を受けた場合は、退学など「外形的処分」もありえたが、内面の自由を抑圧する反省文強制は大学ではない。それどころか、前にも触れたことがある平岡正明は学生時代に犯罪者同盟を結成し、万引き闘争に決起して逮捕されているが、この件で退学にはなっていない。もちろん、反省文強制などない。
大学ではそれほど思想の自由・研究の自由・学問の自由が保証されている。義務教育・準義務教育で反省文強制があるのは、それが国家にとっての「期待される人間像」の育成機関だからだ。教科書検定があるのもそれ故である。大学では教科書も講義も全く自由であり、教師は教員免許も必要なく、学歴さえ不要である。牧野富太郎は小卒で東大講師だったし、安藤忠雄は高卒で東大教授だった。
大学では国家理念を揺るがすほどの自由が認められている。しかし、愛知淑徳大学では「大学の基本理念」に抵触する程度の自由さえ認めないらしい。
奇しくも同じこの七月、中村禎里『日本のルィセンコ論争』(みすず書房)の新版が刊行された。米本昌平の行き届いた巻頭解説も付載され、本書の重要性がよく理解できるようになっている。
ルィセンコ論争があぶり出したのは「良いイデオロギー」による学問の抑圧の問題と言えようか。二十世紀初めのソ連で、生物は遺伝で決定されるのではなく、後天的な要因(環境・教育)によって決まるという生物学が生まれた。これはナチスの「人種生物学」に対抗する武器である。
ソ連には「人民を殺し、全民族を破滅におちいらせるような自由はない」としてルィセンコ説が強制され、それが日本の学者世界にも甚大な影響を与えた。「良いイデオロギー」と闘う強靱な知性の重要性が分かる。むろん、オッチョコ学生には望むべくもないのだが。
●くれ・ともふさ/1946年生まれ。日本マンガ学会前会長。著書に『バカにつける薬』『つぎはぎ仏教入門』など多数。
※週刊ポスト2017年9月8日号