村田兆治氏の提唱で行われている
後日、粟島の子供たちから手紙が届いた。そこには野球の御礼だけではなく、「お父さんのあとを継いで漁師になります」「病気で苦しんでいる人のために医師になりたい」と、将来への明るい夢が書かれていた。
自分の“本気”が子供たちに伝わった──そう感じた村田氏と、離島の球児たちの交流が、この日から始まったのだった。
通算勝利数の215を目標に手弁当で全国の離島を回り、北は礼文島から南は与那国島まで訪問を始めた。北海道南西沖地震と津波に襲われた北海道・奥尻島でも、子供たちに140キロの速球を投げ込みながら「負けるな」と繰り返し叫んだという。
50か所の離島で計100回の野球教室を開催。その活動の中で、野球を楽しむ子供たちを見て「離島甲子園」を思い立った。離島がある自治体に参加を呼びかけ、2008年の第1回大会には奥尻島や三宅島などから10チーム・200人が参加して行なわれた。
参加資格は離島で野球をする子供たちであること。中学の単独チームだけではなく、複数の中学での合同チーム、クラブチームを中心とした選抜チームなど、様々な形態で参加可能だ。
国交省や内閣府、離島がある自治体、そして多くの企業からの後援や協賛により、球児たちは遠征費を1円も使うことなく試合に臨める。大会は予選のないトーナメント制で、離島の持ち回りで開催され、参加数は年々増えている。
「一時は東京ドームや福岡ドームに集めて開催しようかとも考えました。でも持ち回りで大会を開くことで、お互いの離島の実態がわかるし、同じ境遇を通じて共感し、新たな交流のきっかけにもなりますから」(村田氏)