その「民俗選挙」の土着ぶりは、良くも悪くも「票」となり、結果、民意と呼ばれるものの一部を今も成していることがよくわかる。しかし、その「草の根」や、選挙の祝祭性に「これから」の可能性を見出すか否かでぼくと杉本の立場は別れる。
「民俗知」を生かした選挙という杉本の主張の響きは心地よいが、「民俗選挙」がWeb上で仮想化し再生しているのが、例えば、ネトウヨたちの政治的動員や祝祭ぶりだとむしろ感じる。村の前近代とWeb上のポストモダンの相似と共振が今の「保守」の得体の知れなさの正体なのだ。そこまで踏み込んでようやく、杉本の「選挙の民俗学」は現在に届くはずなのだが。
※週刊ポスト2017年11月24日号