現に〈まるで、稲尾(和久)のようだ〉(野村克也監督)、〈伊藤のスライダー。あれは魔球でした〉(中日・立浪和義内野手)と、当時を知る人は敵味方なく、あの時の伊藤を絶賛する。1993年春、三菱自動車京都から入団した彼は、一軍初戦で10奪三振の鮮烈なデビューを飾り、2か月余りで7勝をマーク。ストレートでもスライダーでも球の軌道や腕の振りが変わらない〈イヤなピッチャー〉の出現はひとつの事件となった。
この時点で彼は14試合に登板、防御率0.91を記録するが、6月は5試合で694球と明らかに投げ過ぎた。結果、球宴前に戦線離脱した原因を監督の酷使に求める声は今も根強いが、野村監督自身が伊藤の投球に惚れこみ、スライダーを純粋に見たがったとも聞く。
「誰もが書きたがった初評伝を彼が僕に書かせてくれたきっかけは、テレビ朝日『マツコ&有吉の怒り新党』で、僕も企画にかみ、〈まさかの感動回〉と評判になった『新・3大“悲運のエース”伊藤智仁の記録より記憶に残る投球』でした。トモさんにはそれまで数回取材した程度でしたが『あの番組、観ました?』と聞くと、『観た。凄くいい番組だったね』と言ってくれて。
番組では彼があの6月、いかに無理をしたかを多少劇的に演出していて、球数が180球を超えても替えない監督や、石川県立野球場でサヨナラ弾を放ち、奪三振数の新記録も阻んだ篠塚和典さんは完全に悪役だった(笑い)。でも篠塚さんはもちろん、野村さんにも悪意などなく、トモさん自身当時のことを全く後悔してないんです」