続けて台湾の産業発展の基礎となる公共衛生の改善、台湾経営の財源確保のための事業公債発行、台湾北部の基隆と南部の高雄を結ぶ縦貫鉄道の建設、基隆港の築港を進めた。そしてこれらのインフラ整備を完成させると、砂糖、樟脳などに代表される具体的な産業開発と奨励をしたことで、台湾の経済発展の軌道を定めたのである。
私が幼いころ、家は地主で、父は組合長も務めていた。祖父はお茶畑を持ってお茶を作りながら、同時に自治会長にあたる「保正」でもあった。清朝時代から続いてきた集落の自治制度である保甲制度(*)は、後藤がそのまま存続させた。台湾が日本の領土となっても、台湾の人々に無理のない「生物学的見地」からの統治を考えた人でもあったともいえるだろう。
【*10戸で1甲、10甲で1保とした自治組織。役員として、甲には「甲長」、保には「保正」が置かれた。】
◆天皇・国家のために尽くす
今日の台湾の繁栄は後藤が築いた基礎の上にあるといえる。この基礎の上に新しい台湾を築き、民主化を促進した私は、後藤とも無縁ではないと思っている。つまり、時間的な交差点はなくとも、空間的には強いつながりを持っているだけでなく、後藤新平と私個人の間には精神的な深いつながりがあるのである。
政治家には二種類の人間がいると言われる。まずは権力掌握を目的とする者、そして、仕事を目的とする者だ。権力にとらわれない政治家は堕落しない。私は総統時代に指導者の条件として、「いつでも権力を放棄すべし」を自らに課し自制していた。
普通の人が権力を持った時、非常に幸福であり、快楽であると思うことが多い。それはやりたい放題で、なんでもできるからだ。しかし、後藤は明らかに後者、つまり、仕事のために権力を持った人であった。私と後藤に共通するのは「信念」であったといえる。私はクリスチャンで、信仰を通じて最終的に見出した私自身のあり方が「我是不是我的我」、つまり「私は私でない私」であった。