台湾の基礎を築き上げた後藤新平は権力にとらわれなかった 近現代PL/AFLO
そのため後藤と私との間に空間的なつながりはあるものの、お互いを結びつける交差点は見当たらない。しかしながら、後藤の生い立ちや、その後の台湾における輝かしい業績を辿ることにより、私は計り知れない人間的な偉大さを感じ、自分自身に深く滲みこんでいるものを感じるのである。
◆9年で「一世紀にも等しい」発展を果たした台湾
1895年の下関条約で台湾は清朝から日本へ割譲された。初代総督の樺山資紀から第3代の乃木希典まで、台湾の開発は端緒についたばかりであった。
1898年、第4代台湾総督として児玉が発令を受けると、児玉は後藤をナンバー2の地位にあたる民政局長(後の民政長官)に起用する。後藤はもともと医師出身の内務官僚だったが、日清戦争後の大量の帰還兵士23万人の検疫を見事にやり遂げ、その行政手腕が児玉の目に留まったのである。
その後、民政長官として在任した9年あまりの間、後藤は指導者としての力量を遺憾なく発揮し、台湾は未開発社会から近代社会へと、「一世紀にも等しい」と言われるほどの開発と発展を遂げることになる。
当時の台湾は匪賊が跳梁跋扈して治安が悪く、マラリアをはじめとする疫病が蔓延する危険な地であった。のみならず、アヘン吸引者も多く、産業にみるべきものもなく、まさに未開発の状態だった。
そこでまず後藤が着手したのが人事刷新の断行であった。着任するや高等官以下1080名の禄を食むばかりで仕事をしない官吏を更迭し、日本内地へ送り返すとともに、新渡戸稲造をはじめとする優秀な人材を幅広く台湾へ呼び寄せたのである。