しかし、家康が新田氏の傍系と称したのは、関ケ原の合戦に勝利したのちの慶長七年(一六〇二)が最初で、朝廷から征夷大将軍の職を下賜される直前のことだった。
それまでは、始祖親氏の故郷を不明としており、征夷大将軍への就任が現実味を帯びたところで、形式を整えるために急遽、新田氏の傍系とする話が創作された。そう見て間違いない。
※SAPIO2018年5・6月号
しかし、家康が新田氏の傍系と称したのは、関ケ原の合戦に勝利したのちの慶長七年(一六〇二)が最初で、朝廷から征夷大将軍の職を下賜される直前のことだった。
それまでは、始祖親氏の故郷を不明としており、征夷大将軍への就任が現実味を帯びたところで、形式を整えるために急遽、新田氏の傍系とする話が創作された。そう見て間違いない。
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