◆唐揚げ粉のスパゲッティとホームレスにおごられたバス代
幸せは長くは続かない。2年後の2001年、指に異変を感じた。
「演奏中、左手の薬指がスムーズに動かないことに気づきました。日常生活には支障がないのですが、ピアノを弾こうとすると、指が意思に反して内側に回ってしまうんです。音大時代にも一時的に似たような状態になったことがあったので、最初は『変な癖がついたんだろう』くらいにしか思っていませんでした」
だが、症状は悪化していく。
「そのうち、左手のひら全体が硬直するようになり、右手にも異変が現れました。左手の薬指・中指・小指、右手の中指・薬指が曲がってしまいました。それでも、病気だとは思わず、練習のやりすぎかもしれないと、マッサージや鍼治療などを受けましたが一向によくならない。だけど音楽活動を止めるわけにはいかないから、コンサートではスピードを落として弾いたり、音を抜いたりとめちゃくちゃだった。当然、演奏の仕事はどんどん減っていきました」
いくつもの検査をした結果、神経の病気である「ジストニア」だと診断された。筋肉が収縮を起こし、自分の意思通りに動かなくなる難病で、メカニズムや効果的な治療法はいまだ解明されていない。
ニューヨーク中の医師を訪ね、「ぼくの指は回復するのでしょうか」と問い詰めるも、返ってくるのは一環して、「少なくとも、プロとしては一生ピアノを弾けません」という絶望的な言葉。
「指のことを公表したら、世間から見捨てられてしまう、夢のような生活を失ってしまうと恐怖と不安に押しつぶされそうでした。気晴らしに一時帰国した日本でも“ニューヨーク帰りのピアニスト”として『一曲弾いてほしい』と頼まれる。けれど、弾きたくても指が動かないし、本当のことすら言えない。家族や先生にさえ打ち明けられず、人目を避けるようになりました」
住居だけは先生が提供してくれていたが、物価の高いニューヨークでの暮らしは厳しく貯金はすぐに底をついた。
「食べるものがなくて、スパゲッティに、母が送ってくれていた唐揚げ粉をふりかけて食べたことがあった。バスに乗る1ドル75セント(約200円)が足りなくて、見かねたホームレスが出してくれたこともあります」
生活苦以上につらかったのは、ピアノを弾けない自分自身に存在価値を見出せなくなってしまったことだった。
◆自殺未遂と“棺桶”アパート
「中3の冬から、自分の人生はピアノ一色だった。それを奪われた自分は一体何者なのだろう?と自問自答する日々が続きました」
失意の底に落ちた西川はついに自殺を考える。
「涙すら出ないほどつらくてあまりにも追い詰められていたからか、当時のことを鮮明に思い出すことができないんです。唯一くっきり覚えているのは、手首を切ろうとしたときに感じた強い痛み。あまりにも痛くて痛くて、とても死ねない。ぼくは死ぬ根性すらなかったんです。だけどそれで、ある意味諦めがついた。死ねないなら、リハビリをするしか道はない。病気と向き合う以外に方法はないんだと」