国内

7本指のピアニスト、挫折と屈辱の先にあった自分だけの音

帰国時、子供たちにピアノを教えるために立ち寄ったピアノ教室でミニリサイタル(撮影/杉原照夫)

 ピアノの前にひとりの男が座り、鍵盤に手を下ろす。大きな手から紡がれるプレリュードは、しっとりした優しい音色だ。鍵盤を動き回る指は、右手と、左手の親指と人さし指のみ。美しい旋律は、7本の指だけで奏でられている。

 彼の名前は、西川悟平(43才)。ニューヨークを中心に世界で活躍するピアニストだ。福岡市に住む川畑嘉子さん(70代)は西川の演奏するベートーヴェンを初めて聴いて、涙があふれたと語る。

「私は音楽の詳しい知識は持ち合わせていないし、本来両手すべてを使って弾く曲を7本だけの指で奏でることがどれほど難しいのかも、わかりません。けれど、悟平さんの音を聴いていると、心が伝わる音楽というものが存在するんだとわかるんです。彼のピアノからは、優しくて前向きな魂を感じます」

「ぼくも世界的な音楽家になって、いつか西川さんと共演したい」と目を輝かせるのは、山下我雲生くん(11才)。

「とにかく、音がきれいなんです。ぼくもこんなふうに弾けたらいいな、と強く思いました。一つひとつの音を大事にしていることが、強く伝わってきます」

◆ピアノを布団でぐるぐる巻きにして練習した

 西川がピアノと出会ったのは15才。中学3年生の冬だった。故・中村紘子さん(享年72)は3才から、フジコ・ヘミング(85才)は5才から。世界で活躍するピアニストのほとんどは幼少期からピアノを習い始めていることを考えれば、そのスタートは、あまりに遅い。

「鍵盤の“ド”がどれかすらわからなかったし、当然楽譜なんて読めない。そんな自分がピアノを習い始めたのは、完全に不純な動機です。所属していたブラスバンド部の顧問の先生に、恋をしたんです。なんとか先生に近づきたいと思って、『音大に行きたいからピアノのレッスンをしてほしい』とお願いしました」(西川、「」内以下同)

 しかしレッスン初日、下心は吹き飛んだ。

「ぼくが弾いた『ドレミファソファミレド』という簡単なフレーズに、先生が即興で伴奏をつけてくれた。その音が、これまでの人生で聞いたことがないほど美しかった。大げさだけど、雷に打たれたようなショックでした」

 西川少年はその日から、本気で音大を目指しピアノ一色の青春を送ることになる。

「1日12時間はピアノの前に座って、ずっと練習。休み時間の15分も、音楽室にすっ飛んで行ってピアノを弾きました。新しい曲が弾けるようになるのが何よりうれしくて、その頃の口癖は『先生、宿題ください』でした。楽譜が読めないから、すべての音符に『ドレミ』とカタカナでルビを振って読み上げながら弾く。家で練習するときは、近所迷惑にならないように布団でピアノをぐるぐる巻きにして音が漏れないように練習しました。レッスン代や楽譜代を稼ぐために、いろいろアルバイトもした。彫刻のヌードモデルをしたこともあったけれど、ピアノのためだと思えば全然苦にならなかった」

 母はそんな西川少年を温かく見守り続けた。

関連キーワード

トピックス

今季から選手活動を休止することを発表したカーリング女子の本橋麻里(Xより)
《日本が変わってきてますね》ロコ・ソラーレ本橋麻里氏がSNSで参院選投票を促す理由 講演する機会が増えて…支持政党を「推し」と呼ぶ若者にも見解
NEWSポストセブン
白石隆浩死刑囚
《女性を家に連れ込むのが得意》座間9人殺害・白石死刑囚が明かしていた「金を奪って強引な性行為をしてから殺害」のスリル…あまりにも身勝手な主張【死刑執行】
NEWSポストセブン
失言後に記者会見を開いた自民党の鶴保庸介氏(時事通信フォト)
「運のいいことに…」「卒業証書チラ見せ」…失言や騒動で謝罪した政治家たちの実例に学ぶ“やっちゃいけない謝り方”
NEWSポストセブン
球種構成に明らかな変化が(時事通信フォト)
大谷翔平の前半戦の投球「直球が6割超」で見えた“最強の進化”、しかしメジャーでは“フォーシームが決め球”の選手はおらず、組み立てを試行錯誤している段階か
週刊ポスト
参議院選挙に向けてある動きが起こっている(時事通信フォト)
《“参政党ブーム”で割れる歌舞伎町》「俺は彼らに賭けますよ」(ホスト)vs.「トー横の希望と参政党は真逆の存在」(トー横キッズ)取材で見えた若者のリアルな政治意識とは
NEWSポストセブン
ベビーシッターに加えてチャイルドマインダーの資格も取得(横澤夏子公式インスタグラムより)
芸人・横澤夏子の「婚活」で学んだ“ママの人間関係構築術”「スーパー&パークを話のタネに」「LINE IDは減るもんじゃない」
NEWSポストセブン
LINEヤフー現役社員の木村絵里子さん
LINEヤフー現役社員がグラビア挑戦で美しいカラダを披露「上司や同僚も応援してくれています」
NEWSポストセブン
モンゴル滞在を終えて帰国された雅子さま(撮影/JMPA)
雅子さま、戦後80年の“かつてないほどの公務の連続”で体調は極限に近い状態か 夏の3度の静養に愛子さまが同行、スケジュールは美智子さまへの配慮も 
女性セブン
場所前には苦悩も明かしていた新横綱・大の里
新横綱・大の里、場所前に明かしていた苦悩と覚悟 苦手の名古屋場所は「唯一無二の横綱」への起点場所となるか
週刊ポスト
医療的ケア児の娘を殺害した母親の公判が行われた(左はイメージ/Getty、右は福岡地裁)
24時間介護が必要な「医療的ケア児の娘」を殺害…無理心中を計った母親の“心の線”を切った「夫の何気ない言葉」【判決・執行猶予付き懲役3年】
NEWSポストセブン
近況について語った渡邊渚さん(撮影/西條彰仁)
渡邊渚さんが綴る自身の「健康状態」の変化 PTSD発症から2年が経ち「生きることを選択できるようになってきた」
NEWSポストセブン
昨年12月23日、福島県喜多方市の山間部にある民家にクマが出現した(写真はイメージです)
《またもクレーム殺到》「クマを殺すな」「クマがいる土地に人間が住んでるんだ!」ヒグマ駆除後に北海道の役場に電話相次ぐ…猟友会は「ヒグマの肉食化が進んでいる」と警鐘
NEWSポストセブン