病気と向き合うということは、ピアニストでなくなった自分と向き合うということだった。ピアノが弾けないのに先生が提供してくれた家に住み続けることに申し訳なさを感じた西川は、安いアパートに引っ越し、あらゆる仕事を掛け持ちした。
その上ニューヨークは医療費も莫大だ。保険料は安くても月に6万円。1分弱の風邪の診断に4万円が相場である。これまでの華やかな生活から一変、ハードな毎日が始まった。
「新しいアパートは、通称“棺桶”と呼ばれるほど狭くて暗かった(笑い)。寝るスペースのほかに、ほとんど何もないんです」
仕事はホテルのフロント業務やエステティシャンなど、紹介されたものはなんでもやった。
「渡米したばかりの、スピルバーグのような家から見えたキラキラ輝いていたニューヨークとは180度違う景色がそこには広がっていた。見えてきたのは、格差と差別の世界。八百屋で働こうとしたら『黄色人種はだめだ』と門前払いを食らったり、清掃作業員のぼくを邪険に扱う人がいたりと、厳しさをこれでもかと思い知らされた」
とくに屈辱を感じたのは、清掃作業員として屋外のパーティー会場で働いていたときだった。
「男性ピアニストが美しい演奏をして、ゲストのかたたちが拍手している横で、床に落ちた犬の糞を片付けていたんです。ピアノの演奏にはうっとりと聴き入る人たちも、ぼくには嫌悪と侮蔑のまなざしを向けてくる。そのとき、『ちくしょう、もう一度舞台に立ってやる!』と決心しました。あの経験は、神様からのプレゼントだと思っています」
“棺桶アパート”に帰るとすぐに、練習を再開した。とはいえ、それまでのようなピアノなど置けるわけもなく、おもちゃのようなピアノでのやり直しだった。
「最初は、小さなキーボードを前に『ド・ド・ソ・ソ・ラ・ラ・ソ』と指1本で、『きらきら星』を子供が遊ぶようなたどたどしい手つきで弾いていました」
練習といっても、指が5本動いたときの50分の1のスピードでゆっくり、何度も同じ箇所を繰り返し、なぞるように弾く。気が遠くなるような作業だった。
せめて1曲、たとえそれが童謡だったとしても弾けるようになりたい。前のように華やかな生活をしなくても、拍手喝采を浴びなくてもいい。たった1人でもいい。音楽を愛する人のために、もう一度美しいメロディーを舞台の上で奏でたい。
「叶えてくれたのは、アルバイトをしていた幼稚園の園児たちでした。ある日、5本の指でがむしゃらに『きらきら星』を弾いていたらそれに合わせて笑いながら、子供たちが踊り出したんです。その様子を見て、聴いてくれる人の心が動かされれば、何本の指でどう弾こうがそれは音楽だと初めて気がつきました」
子供たちの笑い声に背中を押され、技術ではなく、どう心を込めて優しい音を出すかを西川は徹底的に研究し始める。
ニューヨークに来たばかりの頃、恩師が言った「自分だけの音」という意味が、7本指になってやっとわかりかけた。
※女性セブン2018年9月20日号