東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏
兵を集められなかった大友皇子が敗れたあと天武天皇の命で東山道に不破関、東海道に鈴鹿関、北陸道に愛発関と、東国から畿内に入る幹線道路に三つの関所が設けられました。侵略者は東からやってくるという認識だったのです。
これらの関所より東の地域が「関東」と呼ばれるようになりました。都の人々は自分たちが日本の中心にいると考えているわけですから、「関西」などという認識はありません。江戸時代になっても、もっぱら「上方」が使われました。
いわゆる〈原日本〉の序列は畿内、次いで博多を中心とした九州など西日本、そして関東を含む〈それ以外〉です。博多は古くからチャイナタウンがあり、朝鮮半島、中国に面した交易の中心、文化の先進地でした。
三関の設置から250年以上も経って起きた平将門の乱、さらに200年以上後の鎌倉幕府の成立をもってしても、関東が畿内と拮抗する地位についたとはいえません。なぜなら、鎌倉幕府成立後も、依然として〈原日本〉の行政を差配していたのは朝廷だったからです。鎌倉幕府はあくまでも軍事部門を中心とした地方勢力に過ぎませんでした。
転機は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して挙兵し、武家集団がはじめて朝廷を破った「承久の変」(西暦1221年)でしょう。それまで朝廷は「武家集団など、勅令で服従させられる」と思っていたはずですが、この承久の変で、はじめて権威と権力を忽せにされてしまった。