井上:墓は誰のものかという問いに戻れば、私はこの「お墓を巡る旅」を終えて、やっぱり遺された人のものだという気がします。生きてる人間が「自分のお墓をここに」と指定するのも、もちろんアリなんですが、どこかあつかましいというか、傲慢な気がして。いくつかの選択肢を子供に伝えておいて、私が死んだ後に好きに選んでね、かな。
江上:ぼくはね、でもやっぱり自分が生きているうちに決めておきたい。
井上:そういえば、江上さんの生まれ故郷の先祖代々のお墓は今、どうなっているんですか?
江上:ぼくは両親、兄、姉とももう亡くなっているんです。こういう商売ですから、どこにいても書ける。それで、田舎に居を移そうかと考えた時期もあったんですが、幸いに姉の息子が継いでくれました。甥が守ってくれています。村には四十九日まで毎晩御詠歌を上げるという風習があって、最後に亡くなった親父のときも甥っ子がしてくれたと思います。
井上:現代でもまだ生きてるんですね、そういう風習が。そこに入るという選択肢は?
江上:女房が120%イヤだと言うでしょうね。いや、言ったかも…、いや、言いました(笑い)。昨日青山墓地の横を車で通りながら、「ここも500とか600とかずいぶん無縁墓があるらしいよ」と言ったら、「あらいいわね、この辺りだったらテニスコートも近いし、おいしい料理屋さんも多いし」と言ってましたから。
井上:むちゃくちゃ倍率高いですけどね(笑い)。
江上:ぼくはお墓を生前に決めておきたいですよ。「安堵を得る」というやすらぎ効果もあるから。
井上:あるかもしれませんね。
江上:安堵というのは、お母さんの胎内にいて、へその緒でつながってというイメージです。ご先祖様でもなんでもいいんですが、何か大きなものとつながっているという。
ぼくらは東京という都会に出てきて、田舎から切り離されている。生きてはいても、浮遊霊みたいなものじゃないですか。実際問題、あまり縁もないですし。その浮遊霊が浮遊するのをやめたとき、どこに留まるんだろうなと思うと、ぼくの場合はそのイメージがお墓なんです。
あとぼくは、学生の頃にお世話になった井伏鱒二先生のお墓に行ったり、銀行に勤務していたときに頭取だった宮崎邦次さんのお墓にふらりと参ったりするんです。宮崎さんは総会屋事件の責任を取って非業の死を遂げられた。いいかたでした。謙虚なかたでした。お墓も人柄のように謙虚な墓で、そういうかたのお墓の前に行くと我を取り戻すというのかな、反省したり元気がわいたりして「道が正しくなる」気がするんですよ。