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2018.11.06 16:00  週刊ポスト

江戸から大正まで…「ニッポンの美人」の条件が変わった背景

鍋島榮子は「鹿鳴館の華」と呼ばれた

 その最中の明治から大正にかけて、美人でありながらスキャンダラスな存在だったのが照葉。大阪南地の半玉時代に恋人への操の証として自ら小指を切り落とし、新橋芸者時代には多くの美人絵葉書のモデルに起用された。最後は出家するなど波瀾万丈の人生を送り、後年も語り継がれた人物だ。国際派には、アメリカのモルガン財閥の御曹司と結婚し、「モルガンお雪」と呼ばれた祇園の芸妓お雪もいる。

 芸者ブームの一方で、1883年に鹿鳴館が開館し、洋装の普及が始まると、芸者に代表される和服姿の美人とは違った、西洋的な顔立ちの美人が目立ち始める。そこではセレブがファッションリーダーとなり新聞、雑誌で紹介された。その代表格が鍋島榮子、陸奥亮子の2人だ。

 また、「1899年に高等女学校令が公布されて女子教育が普及すると、女学生が理想の美人と見なされた」と前出・佐伯氏は指摘する。その象徴的存在である末弘ヒロ子、朝吹磯子(芥川賞作家朝吹真理子氏の曾祖母)など、「令嬢」が美人の代名詞にもなったのだ。

 ここでは、明治の代表的な美人を紹介しよう。

●鍋島榮子
 権大納言広橋胤保の5女。1881年に当時イタリア特命全権公使・鍋島直大と結婚。イタリア社交界では華やかな活躍を遂げ、鹿鳴館では戸田極子とともに「鹿鳴館の華」と呼ばれた。

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