なぜ、K医師はこれほどまでにマイトラクリップ手術にこだわったのか。K医師は慶應義塾大学医学部出身で、ドイツのブランデンブルグ心臓病センターに留学経験がある。東大病院のスタッフとなったのは、2018年1月だ。
「医局の教授から『これからK先生がマイトラクリップ手術のイニシアチブを取る』とのお達しがありました。新任ながらいきなり難易度の高い手術を任されただけに、周りの医師は驚きました」(B医師)
就任の翌月、東大病院でマイトラクリップ手術の開始が決まると、K医師は適応症例集めに励んだ。
「新しい手術法を開始する時にはできるだけ症例を重ねて、他の病院を実績でリードすることが求められます」(B医師)
だが、症例となる患者はなかなか集まらなかった。2018年5月17日にK医師が循環器内科の医局員に送った以下のメールからは、焦りがうかがえる。
〈MitraClip候補症例については現時点で確定症例がわずかに1例のみと苦戦しております。7月から本治療を開始するにあたり、候補症例を最低7例ストックする必要があり、非常に厳しい状況です〉
〈高齢者でも透析症例でも機能性MRでも適応になります。(中略)このようなお願いばかりで誠に恐縮ではございますが、MitraClip候補症例集めにお力添えを賜れば幸甚です〉
そんな状況のK医師にとってA氏は“求めていた症例”だったのかもしれない。A氏は独身で一人暮らし。カルテにはA氏の家族について、「母認知症、姉とは30年会っていない」との記述があった。だが、母親は70代で物忘れをすることはあるが、病院で「認知症」と診断された経験はない。
母親は息子の死について、「本当のことが知りたい」とだけ話した。