パソコンやスマートフォンのみならず、AI(人工知能)に自動運転など、私たちを取り巻くテクノロジーの進歩は著しく、もはやすべてのひとたちが適応するのが難しいほどの状況になりつつある。
作家の橘玲氏は、新刊『上級国民/下級国民』(小学館新書)で、そうしたテクノロジーの進展がもたらす「知識社会化」によって、「上級国民」と「下級国民」の分断が世界レベルで加速していると指摘。そして「人間関係」にも大きな変化がもたらされていると説く。はたしてその行き着く先には何があるのか。橘氏に聞いた。
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現代を生きる私たちにとって「自分の人生を自由に選択する」という意味でのリベラリズム(自由主義)は当たり前になっています。しかし長大な人類の歴史のなかで、こんな奇妙な価値観が登場したのはせいぜい200~300年前のことです。私たちは、これまでの人類が体験したことのない、個人の「人権」が尊重される「とてつもなくゆたかで平和な社会」に生きているのです。
一人ひとりが「(人権をもつ)個人」として尊重される社会では、さまざまな利害が対立し、人間関係は複雑化していきます。「人情が薄くなった」と嘆くひとがたくさんいますが、実は逆です。旧石器時代から人類はずっと「知り合いしかいない世界」で暮らしていて、人間関係はものすごくシンプルでした。それが毎日たくさんの「他人」と出会うようになったことで、むしろ昔に比べて「人間関係が濃く(複雑に)なりすぎている」のです。
ヒトはこのような複雑な人間関係に適応できるよう「進化」していませんから、日々の生活に息苦しさを感じ、疲れてしまうひとが増えて、プライベートくらいは一人になりたいという「ソロ化」が急速に進んでいます。「ソロキャンプ」という言葉が生まれたように、大勢で楽しむイメージが強いキャンプですら最近は一人で行くようです。
「組織(共同体)」をつくるよりも、たまたま合意できた人たちでその場を楽しむ傾向も強まっています。私は、フットサルはメンバーを集めてチームを結成するところから始まるのだと思っていましたが、いまは一人でフットサル場に行って、その場で初めて出会う人たちと即席のチームを組んでプレーするのだそうです。「個人単位の参加」が原則で、「友だちとつるんでくるような奴にはパスを回さない」と聞いたときにはびっくりしました。「イエ制度」の影響が強く残る日本でも、若者のあいだでは個人化・流動化が急速に進んでいるのです。