具体的には一橋大の場合、「教育研究の国際競争力向上のための教員の充実」「語学教育プログラムの充実」「国際認証AACSBの取得による国際水準の教育の充実」「グローバルアクティブ・ラーニング等の整備」を掲げている。つまりは外国人教員を増やし、英語漬けの教育機会を増やすというようなことだ。近い将来、「ソーシャル・データサイエンス学部」を新設するとも聞く。私大ではすでにありふれた情報工学系のカタカナ学部だ。
そういう動きって、そんなに意味があるのだろうか。千葉大の件と同じく、「それでどこまでグローバル人材は育つの?」という疑問が浮かぶ。前後左右どこを向いてもグローバル化グローバル化と叫んでいる中で、「他の大学との差別化ができてないじゃん」とツッコミたくもなる。
そりゃ、たとえば英語はできないよりできたほうがいい。けれども、海外で活躍する総合商社マンなどに話を聞くと、学生時代は語学さっぱりだったが、海外赴任が決まって必死こいて語学に励んだら、まあまあビジネスで使えるぐらいにはなりました、という声が多い。国際ビジネスを展開する企業経営者に話を聞くと、「語学ばかりをやってきた学生さんはあまり採らないんですよ。ノビシロがあまりない人が多くて。語学はうちに入ってから特訓すればいいんで、それよりもいざというときに出せるパワーとか、逆境にめげない粘り強さなどを重視してますね」なんてことを言う。
語学やグローバル対応力は、先述した「必要に迫られた状況下のオン・ザ・ジョブ・トレーニング」でのほうが身につくという話だ。インドの観光地に行くと、5か国語ぐらいを操って路上勧誘に励む「ビジネスマン」とよく出会うが、彼らは食うためという必要に迫られて語学を主体的に習得しているのである。インドの学校の語学教育がすごいからではなく、5か国語を操る能力がなければ食うに困る現実があるから彼らは逆境にめげず学ぶのである。
大学生になるというのは、そうした現実との格闘が始まる前に、より根本的で普遍的な学びを重ねることではないか。多くの物事は一筋縄ではいかないものであるとか、同じ事柄でも人によって見え方はさまざまで自分自身の中にもいろいろな種類の「見方」を持っておいたほうがいいねとか、自分オリジナルなんてものはそうそう発想できるわけじゃなくて先人の知恵の組み合わせをいかにうまくするかがアイデアなんだなとか、そんな「学」を身につけることだと私は思うのである。すぐに役立つ知識や技術よりも、もっと汎用性のある考える力を養う知的空間が大学。理想的にはたぶんそうなのだ。
そういう観点からしたら、授業料の値上げラッシュが始まった国立大学が目指しているものは、近視眼的すぎるのではないか。すぐに役立ちそうな語学、すぐに使えそうな実務学にばかり目が向いていて、その教育実践のために学生の保護者から金を吸い上げようとしている。そんなことは社会に出てから幾らでも勉強できるのに……。私にはそう見える。
今のところ、値上げに踏み切ったのは首都圏の人気大学ばかりだが、遠からずこの流れは関西でも始まるだろう。そして、地方の国立大学はより懐事情が厳しいから、受験生減を覚悟して授業料アップに手を染めるところが出てくる可能性がある。一大学でも出てきたら、値上げ連鎖が瞬く間に広まると思う。多くの家庭の懐事情もより厳しくなるというのに。
一橋大クラスに入れる学力のある子の親はたいてい高学歴で高収入だったりするから、まだいい。問題なのは、駅弁大学と呼ばれるような各県に散らばる地方大学にまで広まったときだ。本当は私大の早慶あたりに行きたかったのだが、お金がないから地元の国立大を選ぶという層はかなりぶ厚く存在する。さらなる値上げラッシュはその層を直撃し、高等教育を受ける機会を仕方なく手離す人たちを出現させる。
それでもグローバル化グローバル化と唱え続けるのか。日本のローカルを苦しめても、か。