休日には弁当を持って川べりに行き、バーベキューをしたり、土手滑りや水遊びをして一日中楽しんだ
◆結婚に至るまで
《社会人としてスタートするにあたり、あなたは、山崎製パンの名古屋工場の営業に配属となりました。私の学校は、新宿。このまま名古屋と新宿で離ればなれになるのか…と思ったのですが、大学の先輩のツテで、あなたはスーパーヤマザキに配属してもらうよう働きかけ、離ればなれになることが避けられました。私が休みの日曜日には、あなたが仕事。あなたの休みの水曜日には、私が職員会議で遅い…会うこともままならない日々が続きました》
〈新宿の「ケルン」を覚えていますか? 私が休みの水曜日に4時頃から先に行ってキミを待っていました。キミは職員会議とかで5時過ぎまで出られなくて、それから6時半頃くらいまでの、キミを家まで送って行きがてらの時間が2人のいつもの短い、短いデートでした。そんな生活を3年間も続けてきたんですね。出会ってから7年、人から見ればたしかに永い春でした。でも2人には充実した毎日でした〉
新米社会人として多忙ですれ違いがちの日々。それでも、学生時代のように、わずかな合間を縫ってふたりの時間をつくり、愛を育んだ。
《昭和47年5月21日、早稲田大学構内にある大隈会館で結婚式を挙げました。当日は、初夏のようなさわやかな天候に恵まれ、家族、友人、会社のかたたちに出席していただき、幸せな時を迎えました》
〈結婚式の日はよく晴れた日でした。披露宴ではキミの友達が歌を歌ってくれたりして華やかなものになりましたね。大隈庭園の新緑の中、真っ白なキミのウエディングドレスが映えてましたね。5月の陽光の下、大隈庭園で撮った記念撮影の記憶がまだあります。キミの指に指輪を嵌めるとき手が震えてなかなかうまく入りませんでした〉
結婚に際しては、容子さんの姉が仲立ちして会場を世話してくれたおかげで、急速に進んだ。貯金も充分にできない社会人3年目のことだった。今にして思えば、誰かが背中を押してくれなければ、その若さでの結婚は無理だった、という。
◆結婚生活
《結婚後の住まいは、あなたが借りていた目白駅から徒歩10分ほどの、目白通りから2軒中に入った、木造アパートの鈴木荘でした。(中略)そんな日々の中で、妊娠がわかりました。(中略) ところが、最初に受診した日に、先生から子宮筋腫があり、胎児が育たないかもしれないので、妊娠5か月になったら、手術をして、筋腫を取りましょうと言われ、講師の仕事はすぐやめて、安静の日々を送らなければ、子供は流産しますと言われました》
〈それから楽しい新婚生活が始まると思ったのですが、キミの妊娠がわかると同時に子宮筋腫で、切迫流産、安静にしなければいけないということで、どうしていいかわからずおっかなびっくりの生活でした。幸い、キミの実家が近かったおかげでお母さんにも助けてもらい、なんとか出産することができました。出産の日、キミは前日から家の中をきれいに片付け、「出産というのは女性にとっては命がけのことなの」といって出かけました〉
出産前なのに容子さんは家の中を片付けてから病院に向かったが、そんなところに容子さんの性格が出ていると英司さんは述懐する。