コミュニケーションにおいて対等であることは難しい。長年付き合っている知人ですら上下は存在し、会話のベースはイジる役とイジられ役で成り立っていることが多い。また、シチュエーションやシーンによって役柄が変化することも……。たとえば、地元ではイジり役だが、社会ではイジられ役になっている人もいるだろう。
芸人の世界ではこういった交代劇が公私に渡り、繰り広げられている。テレビで千原せいじを観た場合、弟・千原ジュニアから「残念な兄」と紹介され、イジられる役となる。しかし『きいたんやけどおじさん』では、聞き手となる後輩3人を相手に饒舌な語り口を披露する。つまり、YouTuber千原せいじはイジる役である。
「イジる」と「イジられる」の関係は、群れの中でのマウンティングに似ている。あるグループのなかでボスになるか、部下になるかはモテを決定づけるうえで重要なポイントだ。高崎山のボスザルをめぐる攻防を思い起こすまでもなく、一般的にはボスのほうがモテるわけだ。千原せいじ含めた全ての芸人がモテを目指し、イジり役の時間を増やそうとするのは必然の現象である。
多くの女性は「優しい人が好き」と言う。しかし、相手の立場を思いやって強いことを言えない優しい人はイジられ役に回ることが多い。つまり、優しい人はどうもモテの土俵でウケが悪い。そういえば『「いい人」ほど収入が少なくなる』といった嫌な研究結果もあったなぁ……。
「がさつ」なイメージが強い千原せいじだが、動画を観ている限り、雑味以上に人間的な凄みを感じることが多かった。大人になると社会に対してどこか諦めた見方を身につけ、何事に対しても一線を引くものである。しかし、千原せいじは子供のように素直な感情をストレートに体現する。
その素直さをみると、各所から「陰謀論めいた話」が舞い込んでくることも理解できる。情報を提供すれば嘘がない笑顔で喜ぶだろう。ネタ元としては眉唾でも面白い話を話したくなる、といった気持ちにもなる。
千原せいじほど表情を変えて話す大人もいない。話している内容に合わせた「喜怒哀楽」が顔に浮き出る。それも秒単位で感情が巡っていくので、顔面の変化が激しい。そこに幼児性が垣間見えた。「がさつ」な言動の合間にのぞく無邪気さも、モテへと繋がっているのかもしれない。
そもそも、「フェイクニュース」が問題となっている昨今、こういった形態のチャンネルを始めること自体が無邪気である。千原せいじは「聞いた話やで」と言いつつも断定口調で自信満々に話してく。周りを気にしないタフな人なのだろう。今時の繊細な男には持ち得ない、豪快さがある。竹を割ったような性格に惹かれる女性がいてもおかしくはない。
そして、2度の不倫騒動を起こしておきながら、怒られはするものの周囲から許される理由も上記の事柄に由来する。千原せいじは「好感度」や「共感」を視聴者に売っていない。そういった意味で希少価値の高い芸人である。芸人はアウトサイダーとして世の中に登場するが、売れていく過程で自らのキャラクター性を薄めていく。一般人に似た感覚を持つことをアピールしていく。そして、最終的には大衆の善意に寄り添うことで長期安定の人気をつかもうと図る。ゆえに穏やかなイメージだけが浸透したとき、印象を裏切る行為が露見すると、好感をもってくれていた人たちから大きな反感を持たれる。
対して千原せいじは異質な存在として紹介され続けてきた芸人だ。視聴者は「共感」することもないので、何をやられても裏切りを感じるわけがない。「好感度」を逆算した美辞麗句なコメントを操り、安易に人気を集める芸人もいる中で、そういった手口に頼ってこなかった強みがここにきて表出している。