ところが、移籍1年目のオフに小山さんが辞めてしまった。後任の皆川睦夫コーチは、小山さんと違って十分な登板間隔を空けてくれませんでした。それでも阪神2年目で10勝をあげましたが、3年目は登板機会を奪われ、肉体的にも精神的にも衰えていきました。
もし小山さんがコーチを続けてくれたら、カネさんの400勝を抜いていたんじゃないかと思いますね。
実は阪神に移籍した際に、広島の古葉竹識監督からも電話があって“ウチに来ないか”と誘いを受けていたんです。阪神に決まった後だったので断わったが、広島に移籍していても違った成績になっていたと思う。
1975年は古葉さんの監督1年目のシーズンで、球団創設初のリーグ優勝をしている。その後も1979年、1980年、1984年と3度の日本一に導いている古葉監督に呼ばれて移籍していれば、扱いも丁寧だったはずです。
──米田氏がそう語るのは、金田氏の大記録を思い浮かべてこそだろう。勝ち星だけでなく、3388奪三振、投球回数5130イニングも、金田氏に次ぐ歴代2位だった。
僕は400勝には届きませんでしたが、唯一、私の登板数の949試合はカネさんより5試合多かった。これだけは誇りです。やはり晩年の1勝はしんどかった。つくづくカネさんの凄さを思い知らされますよ。
●よねだ・てつや/阪急、阪神、近鉄で歴代2位の通算350勝を達成。通算626先発登板、1940失点、4561被安打などの日本記録も保持する。
※週刊ポスト2020年1月3・10日号