金田正一一覧

【金田正一】に関するニュースを集めたページです。

球史に残る名コンビが主軸を張った(写真/共同通信社)
巨人V9の陰にチーム内の熾烈なライバル関係 補強を続けて競争を促した
 2022年のプロ野球は、“BIGBOSS”こと日本ハム・新庄剛志監督の一挙手一投足に話題が集まっているが、開幕ダッシュには失敗。話題性も重要だが、やはりプロ野球は結果が第一だ。その点において傑出した成績を残したのがV9巨人の川上哲治監督だが、彼はどんな方法で9連覇という偉業をなし得たのか。(文中敬称略)【全4回の第3回。第1回から読む】 * * * チーム内の競争は熾烈だった。川上があえていくつもの“ライバル関係”をつくってチームを活性化したと証言するのは、遊撃手のレギュラーを務めた黒江透修である。「ONがいちばん分かりやすいですが、巨人の選手はライバルが他球団よりもチーム内にいた。森(祇晶)さんもキャッチャーに大橋(勲)や吉田(孝司)、槌田(誠)といったアマの大物が入ってきて、蹴落とすために頑張った。ボクも近鉄でショートのレギュラーだった矢ノ浦(国満)が加入して競わされた。川上さんは、選手にあぐらをかかせないために、どんどん補強したのです」 1965年に20勝4敗の成績を挙げた中村稔は昨年、鬼籍に入ったが、生前の取材でやはりチーム内の競争に言及していた。「キャッチャーの森が打球を当てて足を引きずりながら帰ってくると、川上さんが“森、もういいぞ。おい、吉田~”と言う。すると森は“大丈夫です”としっかりとした足取りになる。競争社会ですからね」 国鉄の大エース・金田正一の補強も同様の効果を生んだ。川上・巨人の2年目からチームを支えた“エースのジョー”こと城之内邦雄が言う。「カネさんに負けたくないということで、カネさんの入団1年目に私が21勝、中村さんが20勝、宮田(征典)さんも20勝と、20勝ピッチャーが3人も出た。プロ野球始まって以来のことでした」 選手たちを競争させ、育てるコーチ陣では、打撃コーチ・荒川博の“荒川道場”がよく知られている。一本足打法を完成させて“世界の王”“を育てあげた。黒江も門下生のひとりだ。「(大毎の)榎本喜八さんが荒川さんの一番弟子で、二番弟子がワンちゃん。荒川道場で練習をしていると、途中で榎本さんがやってきてバットを振るが、これがとてつもなく速かった。見るだけでも勉強になりましたよ。 ふすまを外して水平にして持ち上げ、その上を通るようにレベルスイングをする。バットが下から入ったりすると、バットが当たってしまう。上から叩く意識でないとできない素振りでした」 天才肌の長嶋茂雄には荒川道場は水が合わなかったようだが、それでもやはり“練習の虫”だった。「チョーさんもワンちゃんもとにかくバットを振った。チョーさんは遠征先の試合でタコ(ノーヒット)だったりすると、旅館に戻るなり廊下でユニフォームを脱いで素っ裸になってスイングを始める。“土井、ふすま外せ、黒ちゃんバット持て”と言って始める。ONがやるんだから、ボクたち雑魚もやらないといけないという気持ちにさせられた」(黒江) 熾烈な競争があるだけに、戦力になるかは非情に判断された。城之内も晩年に力が落ちると、冷遇された経験を持つ。「8年目(1969年)に腰を壊して4勝。9年目は7勝で、勝負となる10年目でしたが、米国キャンプのメンバーから外れ、都城の二軍キャンプに行かされました。シーズン中に一軍へ上がっても敗戦処理ばかり。トレードでもいいからプレーしたかったが、川上監督からは“他球団で活躍されると困る”と言われて任意引退選手にされてしまった。当時はそれが通用した時代。私もゴマすりができなかったからね」 積極的な補強で他チームの主力を獲得すれば、たとえ活躍しなくても相手の戦力を削ぐことになる。「川上監督としては勝たないと仕方がないのかもしれないが、当時は非情だと思いましたね」と城之内は振り返る。(第4回へ)※週刊ポスト2022年4月22日号
2022.04.16 07:00
週刊ポスト
V9の真実 ONの意識変革を呼び込んだ金田正一氏の「食事」と「散歩」
V9の真実 ONの意識変革を呼び込んだ金田正一氏の「食事」と「散歩」
 1965年から1973年にかけての巨人の9年連続日本一 ──野手は王貞治、長嶋茂雄の「ON」を中心に柴田勲、黒江透修らが脇を固め、投手陣には400勝投手の金田正一や城之内邦雄、堀内恒夫らタレントが揃っていた。そんな「不滅の記録」を打ち立てた常勝軍団を束ねたのが、名将・川上哲治だ。(文中敬称略)【全4回の第1回】 * * * 川上哲治が、水原茂から巨人の監督を引き継いだのは1961年だった。すでにON(王貞治、長嶋茂雄)を擁すなど、充実した戦力があったが、1961~1964年は1位→4位→1位→3位とシーズンごとに浮き沈みがあった。 不滅の記録である「9年連続日本一」が始まる1965年シーズンに先立ち、川上は“大補強”に出る。目玉はB級10年選手制度(※現在のFA制度の前身とも言える制度で、10シーズン以上現役選手として球団に在籍した選手に、移籍権利などが認められた)を行使した国鉄の大エース・金田正一の獲得だった。対巨人戦で通算65勝(歴代1位)の金田の獲得は、川上の肝煎りだったという。2019年に他界した金田は生前、『週刊ポスト』の取材にこう明かしている。「ワシが巨人へ移籍したかった以上に、川上さんがワシを欲しがった。川上さんは、ワシがライバル球団の中日に移籍することを恐れていた。直前のシーズン、国鉄で27勝を挙げていたワシが中日に行くか、巨人に来るのかでは大違いじゃ。9連覇の始まりは金田なくしてなかった。ワシが言うんだから間違いはない」 巨人に移籍後、金田は通算400勝の金字塔を打ち立てるが、その加入は単に“星勘定”のプラスをもたらしただけではなかった。チームの意識改革が進んだのだ。金田はこう振り返っている。「巨人に移籍して一番驚いたのは食事だった。宮崎キャンプで、宿舎の『江南荘』で出された料理を見て呆れたね。冷めたトンカツが食卓に並んでいるのよ。すぐに川上さんに“私は自由にさせてもらう”と伝えたら、一発でOKとなった。川上さんも意識改革したかったんじゃないかな。 ワシは部屋でメシを炊き、鍋をして、温かい食事を食べた。いわゆる『金田鍋』じゃ。すぐに末次(利光)、土井(正三)といった選手が集まってきて、もちろん王や長嶋も来た。ワシは“食べないヤツは負ける”“健康でないと野球はできない”という信念を持っていたからね。キャンプでは、早起きして散歩で体を動かす習慣も導入させた」 川上の金田獲得によってチームの意識が大きく変わった。そのことはONも口を揃えて認める。 長嶋は「チームの雰囲気を作る大きなきっかけは、やはりカネさんの加入でしたね。ワンちゃん(王)とボクに練習はこうやるんだと教えてくれて、ONで率先してカネさんの真似を始めた。それを他の選手も真似して、相乗効果が生まれました」(『週刊ポスト』2015年1月16・23日号)と語り、王は「カネさんから学んだのは自分への投資でした。“野球選手は体が資本”というのがカネさんの哲学。有名な『金田鍋』もよくご相伴にあずかりました」(2014年9月19・26日号)と述懐している。 意識の変革はチーム全体へと波及し、V9の礎が築かれたのだ。(第2回へ続く)※週刊ポスト2022年4月22日号
2022.04.14 07:00
週刊ポスト
佐々木朗希をロッテの大投手はどう見るか?(時事通信フォト)
佐々木朗希は「大投手・金田正一」を抜けるか? 村田兆治が語る「凄さと課題」
 4月10日のオリックス戦で史上16人目の完全試合を達成したロッテの佐々木朗希(20)。13連続三振の世界記録、19奪三振の日本タイ記録、20歳5か月という最年少記録……数々の勲章を同時に手にした佐々木に、かつてロッテの監督も務めた400勝投手の“カネやん”こと、故・金田正一さんを抜く可能性がある選手が出てきたと感嘆するOBは多い。 過去、完全試合を達成した15人の投手のひとりがカネやんだ。若いうちから活躍し、18歳で22勝を挙げて、その後は14年連続で20勝以上をマークした。ノーヒットノーラン(5四球)は18歳1か月で達成し、完全試合は24歳0か月。“打席に立てば三振、守ればエラー連発”と揶揄されていた国鉄での完全試合は評価が高い。一方、DH制で投手が打席に立たないパ・リーグで完全試合を達成した佐々木の快挙も遜色ない(DH制での完全試合達成は佐々木が2人目)。 果たして佐々木はカネやんを抜けるのか──。ロッテOBで愛弟子のひとりである村田兆治氏に、佐々木の凄さについて聞いた。佐々木は村田氏が持っていたロッテの球団記録である16奪三振も塗り替えている。「凄いピッチャーが出て来たね。これで彼の素質が改めてわかったよね」(村田氏・以下同) これだけの快挙を遂げても、まだ“素質”の段階ということか?「そりゃそうだよ。これで記録に残る選手になったのは間違いないが、今度は本当のエースになるために1年間ローテーションを守って最低15勝はしないといけない。チームを引っ張って、ゲームの流れを変えられるようなピッチャーにならないといけない。これからは記憶に残る選手になることも意識しなければね。 過去に完全試合を達成したピッチャーは15人いるが、通算で200勝以上したのは藤本英雄さんとカネさんだけ。カネさんが凄いのは14年連続で20勝以上を続けていること。佐々木は下半身の課題を克服した。腕の可動域も大きく、安定した素晴らしいフォームだと思う。ただ、それをどうやって維持していくか。そのためにはしっかり睡眠をとって、体をケアしなければいけない。稲尾(和久)さんは14年間に304試合で先発している。時代が違うという単純な話ではなく、稲尾さんは体調を維持するために苦労したそうです。1年投げたら、次の1年と先を見据えた野球をしてもらいたい。それぐらい素質があるピッチャーだと思う」 佐々木が素晴らしいのは足を高く上げるフォームだと村田氏は言う。「上半身の力を抜くことができれば足を上げた時に壁ができる。その壁を同じ位置に作るのが難しいのよ。スライダーを投げようとしたら腕が下がるし、下半身が弱ければ左足が開いて腕だけで投げてしまう。勝ち星を挙げているピッチャーはシーズンを通して同じフォームで投げている。200勝するような投手は長く同じフォームで投げている。それでもだんだん足が上がらなくなり、肘が下がる。それで体が早く開くようになり、勝てなくなって引退するわけですよ」「サンデー兆治」の後継者としての「サンデー朗希」についてはこう語る。「オレは肘のケガをしてから1週間に1度の登板になっただけで、その時は36歳だったんだよ。若い頃は中3日で完投して、翌日にリリーフだからね。これは過去のこととしても、佐々木はローテーションを1年間守り、結果を残すために体のケアをすること。ファンのため、チームのためではなく、今は自分のためにやる。そうすればおのずとエースとして頼られる存在になると思う。結果的にファンが喜ぶわけですよ。完全試合はすごい記録だと思うが、勝負はこれから。カネさんのように、マウンドに立つだけで相手に勝てないと思わせるようなピッチャーになってもらいたいね」 カネやんは1試合16奪三振、7者連続三振が最高だが、「3者連続3球三振」という驚異的な記録も持つ。佐々木は400勝、4490奪三振の大記録を追いかけていくことになる。 生前のカネやんは『週刊ポスト』のインタビューで、体づくりを優先して高校時代にあまり登板していなかった佐々木について、「ケガを恐れてはいけない」「ケガをして学ぶことも多い」と苦言を呈していたが、一方で「懐の深い投球フォーム」をベタ褒めしていた(2019年8月16・23日号)。カネやんは今後の課題として「割りばしの(ように細い)体の改善」を挙げていたが、佐々木は完全試合という結果を示してそれも乗り越えた。新たな大投手の伝説がいよいよ幕を開けた。■金田正一さんの秘蔵写真が満載。ジャイアント馬場にキックを見舞うシーンも ■写真/山崎力夫、太田真三 写真提供/金田正一
2022.04.13 19:00
NEWSポストセブン
3年目で偉業を達成した佐々木朗希(時事通信フォト)
ロッテ佐々木朗希 球界OBから「金田正一さんのようになって」の期待
 3月25日にいよいよ開幕を迎えるプロ野球。今季ブレイクが期待されるのが、ロッテの3年目である“令和の怪物”こと佐々木朗希(20)だ。オープン戦では160キロ台のストレートを連発。いよいよローテーションの柱となることが期待されるシーズンとなる。その実力には、球界の大物OBたちも注目を寄せている。 佐々木は岩手・大船渡高校時代からMAX163キロの直球で注目を集めていたが、「体がまだ出来上がっていない」という懸念も大きく、高校3年夏の県大会では連投回避の判断が下され、チームが敗退したことなども話題となった。プロ入り後もまずは体づくりが優先されてきたが、いよいよ本格的にローテーションの一角を担えるようになるのか。 本誌・週刊ポストの3月18日発売号では、野球評論家の江本孟紀氏、中畑清氏、達川光男氏による座談会を掲載し、開幕を迎える今季のプロ野球の展望を語り合ってもらった。紙幅の関係で収録しきれなかったが、取材現場では今季の注目選手として佐々木の名前が挙がっていた。江本氏が「あれは化け物だね」という評価を口にすると、中畑氏はこう話した。「3年目にしてローテ入りするみたいだけど、オレはもっと早くから使ってもらいたかったね。もともと戦力がないチームなんだから、いいピッチャーなら使えと思うんだけど、故障したら終わりというくらい体が弱かったらしいね。とはいえあんな凄い球を投げられるピッチャーの体がそんなに弱いのか、と思うじゃない」 少しでも早くローテーション入りした姿を見たいと思うのは、球界OBのみならず、ファンの願いでもあるだろう。江本氏も「大事に使っているのはわかるが、どこまで大事にするかということでしょう。どこで踏ん切りをつけて金田正一(通算944試合登板、400勝298敗)にするかですよ」と語った。 それを受けて達川氏は、昨季までロッテの一軍投手コーチを務めていた吉井理人氏が、球団本部内に新設されたピッチングコーディネーターに就任したことに言及し、「吉井がマンツーマンで育てていたのに、現場から外れてしまった。吉井は“責任をもって絶対に育てます”と言っていたんだけどね」と懸念を口にした。江本氏も、「それが影響しなければいいが、順調には来ているのでどこで大投手にする成績を残させるか。そのきっかけがあるかですね」としたうえで、こう言葉を継いだ。「順調にいくとは思うが、ひとつだけ気になるのは髪が長いので投げるたびに帽子が落ちていたことですね。髪の毛を一回上げて帽子をかぶればいいんですよ(笑)。ただ、帽子が飛ぶぐらい力強いフォームで投げているということ。腕の振りも素晴らしいよね。あとは野球がストレートの球速を競うゲームじゃないということがわかれば勝てますよ。マスコミに踊らされてはいけません」 真の“令和の怪物”としてファンを魅了する日は近いか。
2022.03.19 11:00
NEWSポストセブン
20年以上出演していた『サンデーモーニング』の卒業を発表した張本勲氏
張本勲氏が卒業する『サンモニ』御意見番「金田正一氏のはずだった」
「喝!」「あっぱれ!」といった余りにも有名なフレーズと批評で人気を集めた野球評論家の張本勲氏(81)が11月28日、出演している『サンデーモーニング』(TBS系)の「週刊御意見番」を年内で卒業することを発表した。張本氏はこれまでも歯に衣着せぬ発言でたびたび物議を醸してきたが、今夏の「あの発言」が卒業の“引き金”になったようだ。  「嫁入り前のお嬢ちゃんが顔を殴り合ってね。こんな競技好きな人がいるんだ」  東京五輪で金メダルを獲得した女子ボクシングの入江聖奈選手(21)について8月8日の放送で張本氏がこうコメントすると、ネット上では「老害」「アスリートに失礼すぎる」など批判する書き込みが殺到し大炎上。日本ボクシング連盟がTBSに抗議文を送り、番組の制作プロデューサー名で「当番組として、不快に思われたボクシング関係者や視聴者の皆さまに誠に申し訳なく存じます」などと記された謝罪文を出す事態となった。  そんな張本氏が“御意見番”として番組に出演するようになったのは、1997年のコーナー開始時に遡る。当時は2010年に亡くなった元日本ハムファイターズ監督の大沢親分こと故・大沢啓二氏とのコンビだった。当初は交代で1人ずつ番組に出演していたが、ある放送でダブルブッキングの手違いが起きたことで共演が実現、その掛け合いが視聴者から評判だったため、以後毎週2人が出演する運びになったという。  しかし、当時を知るあるスポーツジャーナリストは「実は最初は張本さんではなく別の大御所OBに出演オファーが出されていたんです」と明かす。  「『週刊御意見番』のコーナーは、始まる前の予定では2019年に亡くなられた400勝投手のカネやんこと金田正一氏と大沢親分のコンビでスポーツ界を一刀両断してもらう予定でした。しかし、金田氏が“(大沢氏とは)現役時代の成績が違う。格が違う”とオファーを固辞したことで、同じ名球会の張本氏に白羽の矢が立ったんです。20年以上も続く人気コーナーになるとは思いませんでしたが、張本さんも十分に役目は果たしたのではないでしょうか」  張本氏は来年以降も番組に不定期で出演する予定だというが、“後継者”はまだ発表されていない。時に発言が批判を巻き起こすこともあったが、唯一無二の存在感を放っていたことも事実。今後は誰が“喝”を入れるのか――注目は続きそうだ。 
2021.12.03 16:00
NEWSポストセブン
「金田監督」となってからも慕われ続けた(写真/共同通信社)
金田正一さん「俺が俺が」の一方で「認めるべきは認める」心の深さ
 高度成長期のニッポンを牽引したのが「昭和ヒトケタ」世代だ。自らの力で前を向き、上を向いて生きていこうとした彼らは、後の世代にどんな教えを残したのか──。(文中一部敬称略) 史上最多となるプロ野球通算400勝の金字塔を打ち立てた金田正一(2019年没、享年86)は昭和8年に生まれ、17歳で国鉄へ入団。2年目から22勝を挙げるなど、巨人に移籍するまで14年連続で20勝を記録した。「昭和ヒトケタの選手はみんな個性がもの凄く強かった。そのなかでも、金田は別格でしたね。あの時代は(技術を)教える人がいない。だから自分で考えて、自分でやっていく。あるいは他人のいいところを盗んで自分のものにするというやり方しかなかった」 そう振り返るのは、中日のエースとして金田と数々の名勝負を繰り広げた杉下茂だ。大正14年生まれだが、明大旧制専門部を経たために、プロ入りの時期は金田と重なる。「金田は自信満々で、“オレのボールは打てっこないよ”という感じでやっていました。18歳くらいからずっとそう。それほどボールに威力があった。自分のストレートを打った年上の打者に対して、“よくオレのボールを打った”と言うくらい。僕も頑固でしたが、金田も頑固でね。揺るぎない信念があった」 前人未到の成績を残した金田は、引退後にロッテ監督として日本一を達成する(1974年)。昭和24年生まれの村田兆治は、東京(後のロッテ)に入団後、評論家時代の金田のアドバイスによりマサカリ投法を身につけ、金田監督時代にエースとして活躍した。村田はこう話す。「昭和ヒトケタは、自分で人生を切り開いていった人が多かったよね。我々は戦後生まれで、育ったのは少し豊かになった時代だったから、全く違う世代という印象です。 ただ、“オレが、オレが”と言う一方で、認めるべきは認めてくれた。僕はカネさんに認めてもらったひとりだが、入団2年目のキャンプで(評論家として訪れた)カネさんが“この子は凄い”と言ってくれたんです。当時、0勝1敗の選手でコーチは誰も認めてくれなかったが、その一言で変われました」 他人から教わる機会がなかったにもかかわらず、本気で取り組む下の世代に対しては、熱を込めて指導した。村田が続ける。「ロッテの監督になっても、自分が成功した経験を惜しげもなく話してくれた。自分で道を切り開いたからこそ、自信を持って勧められるのだと思います。アスリートの体調管理なんて注目されていない頃から、鍋で温野菜を食えとか、ミネラルウォーターを飲めとか。自分の体には惜しまず投資しろという教えでした。 ただ、教えを受けたうえで、下の世代が自分で考えたことを主張すると、怒らずにそれを認めてくれた。もちろん、直接言わずに陰であれこれ言うのは怒られます。議論することで成長するという考えでしたね」 その姿勢を尊敬してきたと村田は話す。「今でも“走れ走れ”の金田理論は生きていると考えます。昭和ヒトケタは物事の本質を見抜く力があった。準備を怠らず、約束を守るという人間としての基本ができていた。単なる頑固者たちじゃなかったんです」※週刊ポスト2021年7月30日・8月6日号
2021.07.26 07:00
週刊ポスト
金田の400勝もチームのサポートあればこそだった
タイトル争いは投手より打者のほうが醜い争いになるワケ
 今年のプロ野球は、短縮日程だったにもかかわらず、すでにセ・パともに巨人、ソフトバンクが優勝決定を待つばかりになり、注目は個人のタイトル争いに移っている。『週刊ポスト』10月26日発売号では「醜いタイトル争い」の球界裏面史を掘り起こして特集しているが、そこで紹介されるエピソードは圧倒的に「打撃部門」が多い。これはなぜだろうか。 打撃部門の三冠といえば本塁打、打率、打点だ。タイトルを争うような主力打者は毎試合出場するから、タイトル争いは日々めまぐるしく情勢が変化する。それだけに、シーズン終盤にタイトル争いが熾烈になると、候補の選手を抱えるチームは、ライバルの数字を上げないために、直接対決では敬遠を多発して数字を伸ばすチャンスを潰すといった醜い争いが頻発してきた。 古くは1965年に南海の野村克也が戦後初の三冠王に輝いた際に、3部門すべてで争っていた阪急のスペンサーに対し、南海は直接対決で敬遠策を連発した。怒ったスペンサーはバットを上下逆に持って打席に立ち、外角高めの敬遠気味の球に飛びついて内野ゴロを打ったこともあった。 投手部門の三冠は、防御率、勝利、奪三振だ。このうち防御率は、打者の打率と同様に上がりもするし下がりもするから、必ずしも登板機会が多ければ有利とはいえない。ここに「醜い争い」の余地はもちろんある。 昨年のセ・リーグでは中日の大野雄大が2.58でタイトルを獲得したが、広島のジョンソンは2.59と、まさに“ハナ差”の初タイトルだった。もちろん本人に実力があったからではあるが、与田剛監督の後押しも大きかった。 わずかにジョンソンに防御率で劣っていた大野は、シーズン最終盤、9月30日の阪神戦に先発。3回まで無失点に抑えて防御率を改善したが、まだわずかにジョンソンが上回っていた。そして4回、先頭の近本光司を一塁ゴロに打ち取ったところでギリギリ防御率トップに躍り出た。すると、与田監督がベンチから出てきて投手交代を告げたのである。5回まで投げれば自身4度目の2ケタ勝利が達成できるところだったが、タイトルを優先した温情采配だった。試合後、大野は「個人記録を獲るためにワガママを許してもらい感謝しています」とコメントした。 大野のケースのように、采配によって防御率が下がらないようにする、といったサポートはできるが、そもそも投手の記録は、相手チームが「妨害」したり「阻止」したりする余地はほとんどない。タイトルがかかっていようといまいと、相手の打者はヒットを打ち、得点をあげ、勝利しようと努力することに変わりはない。奪三振については、三振しなければいいや、とコツコツ当てて内野ゴロになることはできるかもしれないが、奪三振王を狙うような名投手が相手であれば、それさえも必ずうまくいくわけではない。打者を封じるために敬遠するような簡単な妨害はできないのである。「特定の投手に勝利をあげさせることはできなくはありません。古い例ですが、400勝投手の金田正一は、最後はリリーフで勝ち星を稼いで大台に到達しました。400勝を飾った試合では、先発の城之内邦雄が勝利投手の権利獲得目前で金田にスイッチして勝利を譲っています」(スポーツ紙デスク) 味方が犠牲にならなければできない「工作」となると、それを使える場面は金田正一のような大記録達成の時などに限定される。もうひとつ、最近の投手分業制も投手部門でインチキがあまり起きない背景にあるという。「三冠王はじめ主要なタイトルは規定投球回数に達していないと権利がないものばかり。しかし、最近は投手の分業制が進み、先発投手でも『100球投げたら交代』といった事実上の球数制限があるから、規定回到達がなかなか難しい。今年は現段階でセ・リーグは5人、パ・リーグは6人しか達成していない。どのみち各球団のエース同士が争うタイトルだから、小細工や奇策の余地はあまりない」(同前) タイトルを獲りたい気持ちも獲らせたい親心も十分わかるが、ファンとしてはガチンコ勝負を見せてもらいたいものだ。取材・文/鵜飼克郎(ジャーナリスト)
2020.10.25 07:00
NEWSポストセブン
巨人キラー・川崎憲次郎氏が振り返る「野村ヤクルトと巨人戦」
巨人キラー・川崎憲次郎氏が振り返る「野村ヤクルトと巨人戦」
 巨人を倒さなければ、優勝はない──。セ・リーグの歴史を振り返ると、明確な事実が浮かび上がってくる。1950年の2リーグ分裂後、昨年までの70シーズンで巨人以外の優勝チームは延べ33。そのうち21チームはその年の巨人戦に勝ち越し、2チームは五分の成績に持ち込んでいる。負け越した10チームでも、7チームは借金2以内に抑えている。そうした中で徹底して『打倒・巨人』を掲げ、見事に遂行したのはヤクルトの野村克也監督(享年84)だった。 10年ごとの年代別優勝回数を調べると、巨人は1950年代から2010年代までの7つの年代のうち6つでトップに輝いている。しかし、1990年代だけ唯一、ヤクルトに後塵を拝した。1990年に就任した野村監督のもと、ヤクルトは優勝4回を成し遂げ、巨人の3回を上回った。 快挙の背景には、野村監督がメディアを使って巨人への対抗心を露わにしていたことも大きかったという。野村ヤクルトで“巨人キラー”として名を馳せた投手・川崎憲次郎氏(49)が振り返る。「マスコミは巨人中心に報道していたので、野村さんは意識的に巨人についてボヤき、記者を惹きつけていたのだと思います。監督の発信力によって、ヤクルトがテレビやスポーツ紙で頻繁に取り上げられるようになった。選手は注目されると、より力を発揮できるようになる。野村さんは選手に『取材は絶対断るな』と話し、オフのバラエティ番組出演も積極的に勧めてくれました。そのことで、野球に興味のない人がファンになってくれるかもしれない。メディア露出を増やして知名度を高めれば、必ずチームにプラスになると熟知していた。野村さんは戦術面だけではなく、エンターテイナーとしても頭抜けていた監督でした」(以下「」内、川崎氏) 川崎憲次郎を“巨人キラー”に育て上げたのも、野村監督だった。1988年に大分・津久見高校からドラフト1位で入団した川崎は、ルーキーの1989年に巨人戦で完封勝利を含む2勝を挙げ、既に“巨人キラー”と呼ばれていた。しかし、本人は半信半疑だったという。「大きく取り上げられて、すごく嬉しかった反面、“巨人は初モノに弱い”というジンクスがありましたし、来年以降どうなるかはわからないという気持ちもありました」 就任1年目の1990年、野村監督は対巨人26戦のうち川崎を8度も先発させている。ケガで出遅れた川崎の初先発は4月29日、満員に膨れ上がった神宮球場での巨人戦だった。「この時、1回持たずにノックアウトされたんです。でも、野村さんはすぐに雪辱のチャンスを与えてくれました。僕は『必ずやり返してやる』と闘志を燃やすタイプですし、目立ちたがり屋でもある。お客さんがたくさん入って、テレビ中継もある巨人戦はワクワクして投げていました。監督はそんな僕の性格を見抜き、ローテーションを崩してまで巨人戦に登板させていたのかもしれません。先発は投手コーチから伝えられますし、野村さんから直接言われたことはありませんが、僕も自然と巨人戦で投げる気になっていました」 同年5月17日の巨人戦、中4日で先発した川崎は完投勝利で無念を晴らす。7月には、400勝投手の金田正一も成し遂げられなかった球団史上初の巨人戦2試合連続完封勝利を達成し、“巨人キラー”の称号にふさわしい活躍を見せた。この年の巨人はクロマティ、篠塚利夫、吉村禎章、岡崎郁、駒田徳広など左の強打者が並んでおり、野村監督は加藤博人、バニスター、ロックフォードと左投手を11度も先発させている。一方で、チーム2位の11勝を挙げ、リーグ6位の防御率3.16を誇った右のアンダースロー・宮本賢治は1度も先発させていない。右投手の川崎はどうして、左が並ぶ巨人打線に強かったのか。「手元で落ちるスプリットが左打者に効果的に使えるため、右打者よりも得意にしていたんです」 川崎1人で4勝を挙げても、1990年のヤクルトは巨人に7勝(19敗)しかできず、直近10年で9回目の負け越しとなった。だが、翌1991年に形勢が逆転する。シーズン初対戦の4月19日からの3連戦で先発に加藤博人、川崎憲次郎、西村龍次を送り込み、3タテを食らわせた。対巨人初戦からの3連勝は、開幕戦で金田正一が長嶋茂雄を4打席連続三振に仕留めた1958年(=4連勝)以来33年ぶり2度目の快挙だった。 この年、野村監督は川崎、西村の2本柱を計16度も巨人戦に先発させた。ヤクルトはこの2人で9勝を稼ぎ、巨人に14勝12敗と勝ち越し、11年ぶりのAクラス入りを果たす。こうして巨人コンプレックスを払拭し、翌年には14年ぶりの優勝を勝ち取った。同年、川崎は故障で1年を棒に振ったが、1993年は10勝でカムバック賞を受賞し、連覇に貢献。巨人戦の3勝(2完投)はチームトップだった。「2年目に吉村さんに優勝決定のサヨナラ本塁打を打たれ、悔しくて仕方がありませんでした。あの経験で、巨人戦ではより一層燃えるようになりました。ただ、個人的にもチーム的にも、巨人だからといって、特別な戦い方をするわけではありません。投球の基本はいかにインハイ、アウトローに投げ切れるか。インコースは死球の危険性もありますし、コントロールを少し間違えれば一発を食らう可能性もある。それでも、(捕手の)古田敦也さんは要求しましたし、投手陣は臆することなく投げ切った。だから、巨人に勝てるようになったし、優勝もできた」 ヤクルトは1995年17勝9敗、1997年19勝8敗と巨人に大きく勝ち越し、セ・リーグを制覇。その一方で、川崎の“巨人キラー”というイメージは徐々に薄れていた。1994年、巨人戦に6度先発も1勝5敗。シーズン全体でも6勝9敗、防御率4.79と低調だった。その後2年間はケガで、巨人戦の先発はなし。1997年は3度先発したが、チーム最多はブロスの7度。勝ち星も吉井理人、田畑一也、石井一久が各3勝で、川崎を上回っていた。 岐路に立っていた本格派に、野村監督は『シュートを覚えろ』と指令を出していた。当初、川崎は乗り気ではなかったが、1998年には自身の大きな武器となる。野村政権最終年の同年、巨人戦にチーム最多の7度先発し、6勝を稼いだ。右打者の清原和博や石井浩郎の内角をシュートで攻めて内野ゴロの山を築き、“巨人キラー”の称号も復活した。 野村監督時代の9年間で、川崎は巨人戦最多勝(21勝)、チーム最多の69勝をマーク。今季からヤクルトで指揮を執る高津臣吾は、最多セーブの98を記録している。1993年、西武との日本シリーズ第7戦では、川崎・高津のリレーで野村監督が初の日本一に輝いた。かつての盟友である高津新監督を、川崎はどう見ているのか。「高津監督は根が明るいですし、野村さんのようにメディアを使ってファンの興味を惹き、選手を奮い立たせる力がある。開幕戦のスタメンとファンの方へのメッセージを直筆で書いていましたよね。あの発信に、野村さんの片鱗を見ました。監督という立場になると、現役時代のように振る舞うことが難しいかもしれないですけど、高津監督なら独自の明るい監督像を築いてくれると期待しています」(文中敬称略、名前は当時)■取材・文/岡野誠【川崎憲次郎プロフィール】1988年、ドラフト1位でヤクルト入団。1993年、西武との日本シリーズでMVPに輝く。1998年、最多勝と沢村賞を獲得。新刊『もう一度、ノムさんに騙されてみたい』(青志社)発売中。7月6日月曜19時から配信イベント『もう一度、ノムさんに騙されてみたい~野村克也監督とヤクルト黄金時代』を開催。詳細は下北沢本屋B&Bホームページにて。
2020.07.03 16:00
NEWSポストセブン
大事なことが「伝言ゲーム」で…
ロッテオリオンズのマーク 「伝言ゲーム」で年々微妙に変化
 現在は千葉が本拠地のロッテだが、かつては川崎、さらにその昔は東京都内に本拠地を置いていた。当時のチーム名はオリオンズ。帽子にもドラマがある。約700点に上る野球帽の歴史を解説した『野球帽大図鑑』(著/綱島理友、イラスト/イワヰマサタカ。朝日新聞出版刊)から、ロッテの帽子にまつわるエピソードを紹介しよう。 1969年、東京オリオンズはロッテオリオンズにチーム名を変更する。このとき誕生したのがLOマークだった。1973年に金田正一がロッテの監督に就任すると、ユニフォームのデザインを変更。ブルーだった帽子は紺に変更され、マークの縁取りや空気穴などに赤が採用された。このデザインはロッテが川崎から千葉に移転する1991年まで19シーズン継続した。 しかしこの帽子、時代によって微妙にマークの形が違っている。現在では各球団の使用するデザインは厳密に管理されているが、当時は帽子メーカーが前年のマークを見ながら、見よう見まねで次の年のマークを刺繍していた。いわば伝言ゲームで言葉が変わっていくように、だんだんと形が変わっていったのである。※週刊ポスト2020年6月26日号
2020.06.24 07:00
週刊ポスト
落合博満監督(当時)はさまざまな采配を見せてきた(時事通信フォト)
開幕投手で相手チームを幻惑し続けた中日・落合監督
 6月19日、いよいよプロ野球が始まる。気になる開幕投手の顔ぶれは各チームの監督の公表によって、以下のように明らかになっている。 セ・リーグは、巨人・菅野智之(3年連続6回目)vs阪神・西勇輝(2年ぶり2回目)、ヤクルト・石川雅規(3年ぶり9回目)vs中日・大野雄大(3年ぶり3回目)、DeNA・今永昇太(2年連続2回目)vs広島:大瀬良大地(2年連続2回目)。パ・リーグは、楽天・則本昂大(2年ぶり6回目)vsオリックス:山岡泰輔(2年連続2回目)、西武・ザック・ニール(初)vs日本ハム・有原航平(3年ぶり2回目)、ソフトバンク・東浜巨(初)vsロッテ:石川歩(2年連続2回目)。 直前の怪我などがなければ、まずこの顔触れになりそうだ。現役で最も多く開幕投手を務めたのは、涌井秀章(西武→ロッテ→楽天)の9回。順当に行けば、ヤクルトの石川はトップに並ぶことになる。3位は、7回の岩隈久志(近鉄→楽天→メジャー→巨人)。4位タイは、6回の松坂大輔(西武→メジャー→ソフトバンク→中日→西武)、金子千尋(オリックス→日本ハム)になる。 歴代の開幕投手回数ベスト5を挙げると、1位タイは14回の金田正一(国鉄→巨人)、鈴木啓示(近鉄)、3位は13回の村田兆治(ロッテ)、4位は12回の山田久志(阪急)、5位は10回の東尾修(西武)となっている(記録は2リーグ分裂以降。以下同)。いずれも通算200勝以上の大投手だ。昨今はメジャーリーグへの移籍、3月にWBCが行われる事情もあり、金田や鈴木の14回を抜くのは困難かもしれない。 昭和の頃から開幕戦はエースに託すというイメージが強い。しかし、過去には奇策を打って出るチームもあった。最近では、2004年から中日で指揮を執った落合博満監督が3度も意外な手で相手を幻惑した。野球担当記者が話す。「最も有名なのは、就任1年目に3年間登板ゼロの川崎憲次郎を開幕投手に持ってきたことでしょう。当時の中日は山本昌、野口茂樹、川上憲伸というエース級が揃っており、誰も予想できなかった。チームメイトも、当日のロッカーで知って驚いたという逸話まであります。落合監督は正月には川崎の開幕投手を決めていたようですが、それが情報漏れしなかったことも見事です」(以下同) 川崎は2回途中5失点で降板したものの、打線が奮起し、広島のエース・黒田博樹を攻略。8対6で逆転勝ちを収めた。ルーキーや新外国人、メジャーから復帰した2003年のオリックス・吉井理人を除けば、前年登板なし投手の開幕先発は初めてだった。この奇策は他球団に落合采配を警戒させるのに十分なインパクトを与え、同年中日は5年ぶりのリーグ優勝を果たした。 翌年から2008年までの開幕投手はエースの川上憲伸と正攻法だった。その川上がアトランタ・ブレーブスへ移籍した2009年、落合監督は3年目の浅尾拓也を抜擢した。前年は全てリリーフでの登板で、先発は1年目の8月17日以来だった浅尾は8回1失点と期待に応え、チームは4対1で横浜を破った。「川上は去りましたが、吉見一起は前年に初の2桁勝利を挙げていました。先発にはチェンや中田賢一もいた。その中で、前年のセットアッパーである浅尾の起用は驚きました。浅尾は5月13日を最後にリリーフに回り、引退まで先発することはありませんでしたから、周囲には奇策に見えたでしょう」◆前年4勝以下の投手を3度開幕投手に選出 2011年には、前年4勝のネルソンに開幕を任せた。この年は春季キャンプでチェン、吉見、山本昌と投手陣に故障者が続出。誰が来るのか予想しづらい中、落合監督は開幕戦の出場選手登録に朝倉健太、岩田慎司、小笠原孝、中田賢一、ネルソン、山内壮馬というローテーション投手を全て入れた。通常、先発投手の登録は数名に絞り、リリーフや野手を補充するが、相手の横浜を幻惑する作戦を取ったのだ。開幕戦は敗れたものの、その年、中日は首位・ヤクルトとの最大10ゲーム差を逆転し、連覇を果たした。 落合監督は中日で指揮を執った2004年から8年間で、前年4勝以下の投手を3度も開幕に選んだことになる。同期間の12球団では、2008年のヤクルト・石川雅規(前年4勝)と阪神・安藤優也(前年2勝)の2人だけ。石川は前年不調に陥り、チームの最下位もあって勝ち星が伸びなかったが、2006年まで5年連続2桁勝利。安藤は前年故障で8試合の登板に終わっていたが、2005年から2年連続2桁勝利という実績があった。「落合監督は、その時々のベストを選択していく監督でした。浅尾を抜擢した2009年も、『普通に考えればそうなる。みんなキャンプ、オープン戦を見てないからな』と報道陣に話していた。つまり、“開幕戦はエースでなければならない”という固定観念を持たなかった。先入観に縛られる世間から見ると奇策のように映りますが、落合監督の中では当たり前のことなんです。 2007年、巨人とのクライマックスシリーズ初戦、レギュラーシーズンの後半戦0勝5敗だった左腕の小笠原孝を起用した時も、『奇襲でも何でもない。普通の選択』と答えています。この年の巨人は1番・高橋由伸を筆頭に、小笠原道大、李承燁、阿部慎之助と左の強打者が並んでいました」 試合中の采配はオーソドックスな印象だった落合監督だが、開幕戦での先発起用では相手を幻惑し、その試合のみならず、シーズンを通して主導権を握っていった。そして2010年、2011年と連覇した落合監督が解任された翌年、セ・リーグは予告先発制度が導入された。「予告先発はお互いにミーティングの時間も減りますし、正々堂々と戦うという大義名分もある。しかし、いかに相手の裏をかくかという心理戦は野球の醍醐味のひとつですし、そこからドラマも生まれる。最近は読み合いの風潮が薄れており、ソフトバンクのように強いチームが予想通りに日本一になる。野球は意外性のスポーツであり、想像しなかったことが起こるから面白いという面がある。今のプロ野球界では、なかなか奇策が打てませんね」 時代によってルールは変わる。これは仕方ないことかもしれないが、落合監督の作戦が今もファンの記憶に残っていることも忘れてはならない。
2020.06.16 16:00
NEWSポストセブン
浩宮様は1971年の球宴を観戦し、「いいぞ長嶋」と大喜びした
浩宮様は1971年の球宴を観戦し、「いいぞ長嶋」と大喜びした
 史上初の中止が発表されたプロ野球のオールスターゲーム。過去には様々な名試合、名場面が生まれたが、「史上最高」と語り継がれるのが、江夏豊(阪神)が9者連続奪三振という大記録が達成した1971年のオールスターゲームだ。第1戦では、江夏がパ・リーグ打線をきりきり舞いにし、継投でノーヒット・ノーランをやられたパだが、翌戦から逆襲が始まる。第2戦のセの先発は、4年目で初出場した松岡弘(ヤクルト)だった。「緊張してたんでしょう、いきなり先頭打者の有藤(通世・ロッテ)さんの背中にぶつけましたもん(笑い)。続く張本(勲・東映)さんにはセンター前に弾き返され、長池(徳二・阪急)さんにも内野安打を許してたった8球で失点、敗戦投手ですわ。 ベンチに戻ると王(貞治・巨人)さんから“君の球は速いよ。スピードに勝る脅威はない”と言われた。そのときはジーンときたが、後々考えると策にハマったんじゃないかと思う。その後真っ向勝負でどれだけ打たれたか(笑い)」 先発の金田留弘(東映・金田正一の実弟)から4人で継投したパの投手陣に、セはわずか2安打。長池の一発もあって4対0とパが快勝した。そして1勝1敗で迎えた3戦目。後楽園球場には超満員の3万9035人が集まった。当時、学習院初等科に通っていた浩宮さま、現在の天皇陛下もご学友とともに観戦に訪れていた。 セの先発は、松岡の高校時代のライバルだったカミソリシュートの平松(政次・大洋)。中日の4位指名を受けながら巨人を熱望した平松は一度は社会人へ進むも巨人入りは叶わず、大洋に入った経緯がある。「巨人で投げるのが夢だったから、ファン投票より川上(哲治)監督に監督推薦で選ばれたことのほうが嬉しかった。監督は試合前に全員を集めて“セ・リーグの代表で出ているんだから、恥ずかしい試合だけはやらないでおこう”とみんなを引き締めていました。 ONをバックに投げられた感激は今も忘れませんよ。前年は25勝して最多勝のタイトルも取っていたし、オールスターも3度目でしたが、それでもONを前に緊張していたのか、ファーストの王さんに悪送球してしまった(笑い)」 その平松からピッチャー強襲の先制タイムリーを放ったのが、加藤秀司(阪急)である。加藤は1戦目で、9人目の打者として江夏に9者連続奪三振記録を献上してしまったが、この日の活躍でホームランを打った張本を差し置いてMVPを手にした。「張さんは怒ったやろね。あの頃はベンチの真ん中にノムさん(野村克也・南海)とか張さんとかが座っていた。座るなとは言われなかったが、そういう空気が漂っていた。初出場で遠慮もあったが、1戦目に代打で出されたときはなんで江夏は左ピッチャーなのに左バッターのボクが打ちにいかなアカンねんと思ったけどね」 加藤らの活躍で3点リードのパに対し、反転攻勢に回ったセは4回、2番手の山田(久志・阪急)から長嶋が面目躍如の2ランを放つ。長嶋の勇姿に、浩宮さまの興奮する様子が当時の新聞に残っている。〈長嶋が座席に立つたびに「がんばれ」と声援、本塁打が出た四回には「いいぞ長嶋」といって大喜び。五回を終ったところで休けいの予定を江夏登板で急きょ変更し、そのままご観戦するなど大変な熱の入れよう〉(朝日新聞1971年7月21日付)※週刊ポスト2020年6月5日号
2020.05.29 07:00
週刊ポスト
1980年の巨人投手陣を牽引した江川卓(左)と西本聖の両エース(時事通信フォト)
1980年代の巨人投手陣を牽引した江川卓と西本聖の凄さ
 緊急事態宣言の全国的な解除を受け、2020年のプロ野球の開幕が6月19日に決定した。2020年代のプロ野球の幕開けであり、令和になってから最初の開幕となる。 1950年の2リーグ分裂後、プロ野球界を引っ張ってきたのは読売ジャイアンツだった。年代別の優勝回数を見てみると、1950年代は8回、1960年代は7回、1970年代は6回、セ・リーグを制覇している。1955年から5連覇、1965年から9連覇を成し遂げ、巨人は「球界の盟主」と呼ばれてきた。 1965年にドラフト会議が始まり、各球団の戦力が徐々に均衡。長嶋茂雄が引退し、V9戦士に衰えも見え始めた1975年、巨人は球団初の最下位に転落した。1980年にはミスター・ジャイアンツの長嶋監督が退任し、世界のホームラン王である王貞治も引退。V9のイメージが色濃く残るプレッシャーの中、1980年代のチームを牽引したのは江川卓と西本聖の両投手だった。 1974年オフにドラフト外で松山商業から入団した西本は3年目の1977年に8勝4セーブを挙げ、頭角を現す。翌年オフ、江川卓が『空白の1日』を利用して巨人への入団を試みるが、ドラフト会議で阪神が1位指名。金子鋭コミッショナーの『強い要望』が出され、1979年1月31日に江川は小林繁との交換トレードで、阪神から巨人へ。開幕から約2か月の謹慎を経て6月2日にデビューして9勝を挙げる。 西本はこの年に初めて規定投球回数に達し、リーグ2位の防御率2.76をマーク。3位は2.80の江川だった。野球担当記者が述懐する。「オフに地獄の伊東キャンプが行なわれ、2人とも長嶋監督に鍛えられた。1980年からの8年間、江川と西本が交互に開幕投手を務めており、1980年代の巨人投手陣は2人を軸に回っていた」(以下同) 1980年から6年連続で江川と西本の2人が2ケタ勝利を挙げている(※江川は1987年まで8年連続)。1981年は江川20勝、西本18勝で、チームの73勝の半分以上である38勝を記録。この年、チームの投球回数の4割以上を2人で占め、巨人はV9の1973年以来、8年ぶりの日本一に輝いた。「ドラフト外の西本は、入団当初は同期で1位の定岡正二にライバル心を燃やした。先発の一角に食い込んで定岡を抜いたと認められた頃に、江川が入団した。西本はエリートコースを歩んできた投手に対して、反骨心をむき出しにして、自分を高めていくタイプの投手でした」 西本はシーズンでは江川の勝ち星を上回ることはできなかったが、日本シリーズでは1981年に2勝(2完投1完封)でMVP、1983年も2勝(2完投1完封)で敢闘賞を受賞。江川が開幕投手を務めた年は3位、2位、3位、2位に終わったが、西本が開幕投手を努めた年は優勝、優勝、3位、優勝という結果に。プロ野球ファンの間では、江川は勝負弱く、西本は勝負強いというイメージも出来上がった。 巨人が江川と西本を擁した1980年代、広島は“投手王国”と呼ばれ、北別府学、大野豊、川口和久、山根和夫などの好投手がいた。この10年間で、北別府は137勝を挙げており、両リーグを通じて勝ち星トップ(2位は江川と西本の126勝)。2ケタ勝利の回数は北別府9回、大野、川口5回、山根4回だった。ただし、チーム内の2人で30勝以上を挙げたのは1982年の北別府20勝、津田恒美11勝、1986年の北別府18勝、川口12勝(金石昭人も12勝)の2年に留まっている。「チーム内に確実に勝ち星を計算できる投手が2人以上、長年にわたって存在することはほとんどない。だが、江川と西本は1980年から5年連続で、2人で30勝以上を挙げている。しかも、1980年の西本の14勝を除いて、全て15勝以上。 当時はV9や昭和30年代の野球と比較されて、そこまで評価されなかった印象があります。1988年まで元号は昭和でしたし、まだまだ昔の野球のほうが凄かったという認識があり、先発は毎試合完投、シーズン20勝して初めてエースという風潮もあった。特に江川はアマチュア時代の実績や入団経緯もあったため、400勝投手の金田正一やシーズン42勝の記録を持つ稲尾和久などを引き合いに出され、損をしている面もあると思います」 現役選手で、昨シーズンまで連続2ケタ勝利を挙げているのは千賀滉大(ソフトバンク)の4年が最長。続いて、菅野智之(巨人)と大瀬良大地(広島)の3年になる。一昨年まで6年連続2ケタ勝利の則本昂大(楽天)も、昨年は5勝に留まった。「則本の6年連続のうち、15勝は2回です。現在メジャーで活躍している選手のNPB時代の連続2ケタ勝利を見ると、日本ハムのダルビッシュ有は6年(15勝以上4回)、楽天の田中将大は5年(15勝以上3回)、広島の前田健太は6年(15勝3回)、日本ハムの大谷翔平は3年(15勝1回)、西武の菊池雄星は3年(15勝以上1回)です。大谷と菊池を除いた3人はメジャーでも2ケタ勝っていますし、日本にいれば記録をもっと伸ばしたでしょう。こうして振り返ると、今のメジャー投手と同じくらい、江川と西本は凄かった。その2人が同じチームにいたことが奇跡でした」 エースが2人いたことで、1980年代の巨人は安定した強さを見せた。10年間で優勝4回はリーグ最多。全ての年でAクラスだった。2リーグ分裂後、巨人が1度もBクラスに落ちなかったのは1950年代と1980年代だけ。時代の狭間で、切磋琢磨した江川卓と西本聖はジャイアンツの歴史に名を残した。2020年代、巨人に2人のようなライバル関係で競り合う投手は出てくるか。
2020.05.28 16:00
NEWSポストセブン
プロ野球監督、「評論家から」「コーチから」どちらが有利か
プロ野球監督、「評論家から」「コーチから」どちらが有利か
 新型コロナウイルスの影響で、開幕時期すら危ぶまれている状況だが、今年のプロ野球界には、広島・佐々岡真司氏、ヤクルト・高津臣吾氏、楽天・三木肇氏という3人の新監督が誕生している。いずれも数年間に及ぶコーチ生活を経て、指揮官に昇格した。野球担当記者が話す。「今季、12球団の監督の中でコーチ経験がないのは栗山英樹氏(日本ハム)、工藤公康氏(ソフトバンク)、井口資仁氏(ロッテ)の3人。アレックス・ラミレス氏(DeNA)は2014年に独立リーグの群馬ダイヤモンドペガサスで選手兼任コーチ、翌年にはオリックス巡回アドバイザーをしていました。NPBでの1年間専任コーチを務めていないという点では4人です」(以下同) 逆に言えば、12球団の中で、ラミレス監督を含めて4分の3は指導者を経験してから、監督になっている。かつては長嶋茂雄氏(巨人)や有藤通世氏(ロッテ)のように現役引退後即監督になる場合もあれば、金田正一氏(ロッテ)や鈴木啓示氏(近鉄)、田淵幸一氏(ダイエー)のように引退後、解説者として活動し、コーチ経験なしで監督に就任する人物も多数いた。「昭和や平成の初期までは、指導者としての実力を評価するよりも現役時代の実績や知名度、人気を優先させる傾向が強かった。もちろん、西本幸雄氏(阪急、近鉄)や上田利治氏(阪急、日本ハム)のように、現役時代はスター選手と呼ばれる存在ではなかったが、長年のコーチ生活を経て常勝監督になった人もいますが、そうした監督は少数派でした。一時期、コーチ経験なしで失敗する監督が目立ったこともあり、徐々に変わっていったのでしょう」 現在は少なくなっているが、必ずしもコーチを経験しなければ監督として大成しないわけではない。「ノムさん(野村克也氏)は現役引退後、解説者時代にむさぼるように読書をして言葉を覚え、講演会や解説で話術を磨いた。それが、ヤクルトの監督になった時に生き、1990年代に黄金時代を築けたと語っています。王(貞治)さんは引退後、助監督を3年間務めて巨人の監督になりましたが、5年間でリーグ優勝1回と期待されたほどの成績は残せなかった。のちに、権限のない助監督という中途半端な立場はあまり経験にならず、外から野球を勉強したかったと話しています。解説者生活が勉強になる面は十分あるでしょう」◆コーチを経験しなかった工藤監督、栗山監督ら 一方で、張本勲氏や江川卓氏のように現役引退後、解説者を何十年も続け、一度もユニフォームに袖を通していない大物OBもいる。「著名になればなるほど、コーチ業よりも評論業ほうが儲かる。今は1試合あたりの解説のギャラも減っていますが、それでも講演などもありますし、コーチよりは羽振りはいいはず。監督のオファーなら乗るのでしょうけど、2人とも機を逸した気がしますね。江川さんは長嶋茂雄監督の時に投手コーチとして名前が上がり、第2次原辰徳政権の時にヘッドコーチの噂もありましたが、実現しなかった。本人もコーチではなく、監督として勝負したいと語っていました。今年65歳になりますが、日本の平均寿命も延びていますし、完全に監督の可能性が断たれたわけでもないでしょう。一度、江川監督を見たいファンも根強く残っています」 1988年の引退後、解説者生活を送っていた“ミスター・タイガース”掛布雅之氏は、26年経った2014年から阪神のゼネラルマネージャー付育成&打撃コーディネーター(DC)となり、2016年から2年間は二軍監督を務めた。しかし、一軍監督就任は実現せず。現在は『阪神レジェンドテラー』という肩書きで球団に残っているが、縦縞のユニフォームには袖を通していない。「同じ時代に活躍した岡田彰布さんが引退後、オリックスや阪神の2軍監督やコーチを務め、一度も現場から離れずに阪神の監督になったのとは対照的です。岡田さんは評論家をするよりも、現場にいたほうが指導者として勉強になるという持論です。コーチとして指導者経験を積む、評論家として外から野球を見るという2つの選択は、どちらが正しいかではなく、どちらが自分に合っているかなんでしょう。考え方や取り組み方の問題だと思います。ただ、最近の傾向を見れば、なるべく現場からは離れず、コーチのオファーがきたら素直に受け入れたほうが、いずれ監督になれる可能性は高そうですね」 ケースは減っているものの、コーチを経験せずに、解説者から監督になって結果を残している人物も多数いる。「現在のソフトバンク工藤監督や日本ハム栗山監督は、そのパターンで日本一になっています。星野仙一さんも選手兼任コーチはありましたが、専任では務めていない。しかし、指揮官2年目に優勝をして中日、阪神、楽天の3球団をリーグ制覇に導いた。東尾修さんもコーチ経験はないですが、西武で1997年からパ・リーグ連覇を果たしている。落合博満さんもコーチをせずに監督になりましたが、2000年代に中日の黄金時代を築いています」 引退後、一度もユニフォームを着ていない大物OBが監督を務める姿を見たいファンもいる。現在の12球団監督の結果次第で、時代の流れが再び変わることもありそうだ。
2020.05.06 16:00
NEWSポストセブン
ファンは忘れない 阪神低迷期を支えたマット・キーオ氏の功績
ファンは忘れない 阪神低迷期を支えたマット・キーオ氏の功績
 5月1日(日本時間2日)、アメリカ大リーグのオークランド・アスレチックスが球団公式ホームページで、元阪神タイガースのマット・キーオ氏が死去したと発表した。64歳だった。阪神にとって、キーオ氏とはどんな投手だったのか。ライターの岡野誠氏が綴る。(文中敬称略) * * *〈いまや、阪神の最下位はニュースではないかもしれない〉(平成2年12月31日・日刊スポーツ) 昭和60年の日本一は幻だったのか――。21年ぶりの歓喜から2年後、阪神はセ・リーグ最下位に転落。昭和63年は球団史上初の2年連続最下位に終わり、その後も5位、6位と4年連続Bクラスに沈んでしまう。ファンが絶望の淵に立たされていた時代、獅子奮迅の活躍を見せていたのがマット・キーオである。 大リーグ通算58勝の実績を引っ提げ、昭和62年に入団。父親のマーティ・キーオは昭和43年に南海で一塁手としてプレーしており、日本球界初の親子2代の助っ人外国人となった。日本で過ごしていたキーオは、来日記者会見で「知っている日本語は?」と問われると、「ドン・ガバチョ!」と返答。テレビ人形劇『ひょっこりひょうたん島』(NHK)の大ファンだったのだ。 父と同じ背番号4を付けたキーオは外国人投手初の“入団1年目で開幕投手”に抜擢される。そのヤクルト戦では初回に若松勉にソロホーマーを打たれるなど、7回途中5失点で敗戦投手となったが、2度目の先発では大洋に10安打を浴びるも、2失点完投で来日初勝利を飾った。 球団史上最低のチーム勝率3割3分1厘に終わった同年、キーオは頼みの綱だった。5月3日に8連敗を止めたのを皮切りに、6度も連敗ストッパーに。7月、阪神は3勝12敗と散々な成績だったが、その勝ち星は全てキーオだった。チーム唯一の2ケタである11勝を挙げ、各球団の主軸打者との対戦成績を見ても、首位打者の篠塚利夫(巨人)は13打数2安打、正田耕三(広島)は11打数2安打、本塁打王のリチャード・ランス(広島)は9打数1安打、打点王のカルロス・ポンセ(大洋)は21打数5安打と、タイトルホルダーを苦しめた。 監督が吉田義男から村山実に代わった翌年も、キーオは孤軍奮闘する。4月14日の巨人戦(甲子園)で新体制の初勝利を完投で飾り、村山監督の涙を誘った。この年もチームで唯一の2ケタ勝利(12勝12敗)を記録し、防御率2.76と抜群の安定感を誇った。規定投球回数を投げた18人のうち、敬遠なしはキーオだけ。各チームの主軸に立ち向かい、落合博満(中日)は11打数2安打、中畑清(巨人)は19打数1安打と見事に抑えている。 来日3年目の平成元年には、8月4日の大洋戦で84球の無四球完投勝利を挙げるなど15勝(9敗)8完投、4無四球試合という数字を残して斎藤雅樹(巨人)、西本聖(中日)、桑田真澄(巨人)、阿波野秀幸(近鉄)、渡辺久信(西武)、星野伸之(オリックス)、西崎幸広(日本ハム)とともに沢村賞候補にリストアップされた。結果的に、20勝(6敗)21完投の斎藤が受賞したが、Bクラスに沈んだチームで数少ない明るい話題となった。◆シーズン12安打のうち半分以上が長打 打撃の良さも、キーオの特徴だった。2年目の昭和63年には、4月26日の大洋戦(甲子園)で2回に遠藤一彦から先制3ラン、5月22日の巨人戦(東京ドーム)でも2回に加藤初から先制タイムリーを放ち、ともに勝利打点を記録した。 3年目はシーズン12安打のうち、二塁打4、三塁打2、本塁打1と半分以上が長打であり、打点10を叩き出している。年間2本の三塁打は、バッティングも冴えた金田正一(国鉄→巨人)、米田哲也(阪急→阪神→近鉄)、堀内恒夫(巨人)、平松政次(大洋)、松岡弘(ヤクルト)、江川卓、西本聖、斎藤雅樹、桑田真澄(以上、巨人)も達成していない。 キーオは4年目にも6月6日の中日戦で三塁打を放ち、日本球界4年で3本を数えた。過去20年、阪神の投手で三塁打を打ったのは平成14年5月31日のトレイ・ムーア、平成21年10月4日、平成27年5月5日の岩田稔、平成28年4月12日の藤浪晋太郎の4例しかない。 3年目オフに2年契約を結んだキーオだったが、4年目の平成2年は序盤から波に乗れず、7勝9敗、防御率5.00と成績が落ち込み、球団は解雇を選択した。〈キーオとは今年1月に2年契約を結んでおり、残留の場合には来季150万ドル(約2億1000万円)の年俸を払う必要があるが、バイアウト(契約買い上げ)なら50万ドル(約7000万円)を払って解雇することができる〉(平成2年9月25日・日刊スポーツ) キーオは9月22日のヤクルト戦で勝利投手になると「タイガースが好きだし、来年も投げたい」と話し、大阪空港から日本を離れる際にも“日本球団への売り込みメッセージ”を報道陣に残した。しかし、願いは叶わなかった。1990年代前半、外国人選手の1軍登録は2人まで。現在のように4人まで認められていれば、状況は変わっていただろう。 阪神が18年ぶりに優勝した平成15年、“キーオ以来”の文字がスポーツ紙に踊った。ムーアが外国人投手で2年連続2ケタ勝利、井川慶が15勝(最終的に20勝)を挙げたからだ。阪神時代に美酒は味わえなかったが、のちにチームが優勝したことで、暗黒時代に踏ん張っていたエースにスポットが当たったのだ。 4年間で挙げた45勝のうち、24勝が連敗ストップの試合──。阪神ファンは、低迷期を支えたマット・キーオを決して忘れないだろう。■文/岡野誠:ライター。著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)の巻末資料では田原の1982年、1988年の全出演番組(計534本)を視聴率やテレビ欄の文言などのほか、『ザ・ベストテン』の緻密なデータも掲載。NEWSポストセブン掲載の〈検証 松木安太郎氏「いいボールだ!」は本当にいいボールか?〉(2019年2月)が第26回『編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞』デジタル賞を受賞。
2020.05.05 16:00
NEWSポストセブン
7回裏の攻撃前に歌う
広島応援歌『それ行けカープ』、古葉竹識監督が歌う予定だった
 新型コロナウイルスの影響で開幕が遅れているプロ野球だが、早く球場で応援歌を歌いたいと願っているファンも多いことだろう。そんなプロ野球応援歌のトリビアを紹介しよう。 ヤクルトスワローズの応援歌『東京音頭』に合わせてファンは歌いながら傘を振り上げるが、なぜ「傘」なのかはあまり知られていない。元ヤクルト球団関係者が明かす。「金田正一さんが投げていた国鉄スワローズ時代の1950年代初頭、ファンが少なく閑古鳥が鳴いた神宮球場で、たった1人でも応援していた球団公認の応援団長・岡田正泰さんが始めたそうです。 ある日、試合中に雨が降ってきた。応援仲間が雨傘をさすと、少ない人数でも大応援団に見えると気づき、晴れの日でも傘をさすようにしたそうです」 広島カープのホーム戦では、7回裏の攻撃前に『それ行けカープ~若き鯉たち~』を歌う。 お披露目されたのは1975年。もともとは当時の古葉竹識監督が歌う予定だったが、直前に地元ラジオ局のDJで歌手の塩見大治郎氏に代わったという。古葉氏本人が言う。「歌には自信がありましたし、直前までやる気マンマンでした。でも僕の声だと、チームの成績が悪くなったらファンが歌ってくれなくなっちゃう。それで思い直したんです。 応援歌はベンチで聞いても気持ちいいもんです。球場がひとつになるというかね。今でも口ずさむし、塩見さんに変わってもらって良かったと思いますよ」 2013年秋に44年ぶりに再結成したザ・タイガース。沢田研二は筋金入りの虎党で、同年のCSで敗退した阪神に檄を飛ばすかのように『六甲おろし』ロックバージョンを熱唱した。※週刊ポスト2020年4月17日号
2020.04.08 16:00
週刊ポスト

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