◆医療事故により脳障害を負う
1回目の手術は成功。心臓の手術は全3回予定されており、生後半年で2回目が行われた。それも無事に成功し、あと1回の手術を乗り越えれば家族で暮らすことができる…そんな希望が見えた時、思わぬ悲劇が起こる。看護師が赤ん坊のTKにベルトをかけずに病院内をベビーカーで移動し、TKを頭から落としてしまったのだ。TKは頭を強打。頭蓋骨の下にあり脳を覆っている硬膜と脳との隙間に血がたまる難治性硬膜下血腫となり、生死の境をさまよった。頭蓋骨を開き、血を抜く緊急オペは成功した。しかし、その後長い闘いを余儀なくされる。3回目の心臓の手術に加え、計6回の頭部の手術が繰り返されたのだ。血を抜き取る手術を重ねても出血は止まらず、最終的には頭の血液を排出するためにチューブを埋め込むことになる。TKの頭には今もそれが生々しく残る。
◆「ぼくは小卒」、“主体的不登校”の道を選んで
6歳になったTKは特別支援学校の小学部に通い始める。地域の公立小学校に通う交渉をしたものの、「重症なため、受け入れが難しい」と学校側に判断された。他の子と比べ、体調が悪かったり病院に通わねばならなかったりと、学校を休まざるを得ないことも多かった。あきらめなければいけないことが重なったTKは、「なんでぼくは生きているんだろう」と、塞ぎがちになる。学校では「将来のために」という言葉を聞かされるが、“寿命15歳”という自分に学校で勉強する意味はあるのだろうか。そう疑問を抱くようになった。
「運動会をやって学芸会をやってと、学校は年間スケジュールが決まっていますよね。ぼくにはあまり時間がないのに、学年が上がる度に1周目、2周目と同じことをしなきゃいけないのかと思ったんです」(TK)
TKは、小学校は卒業するも、中学校には行かないと決断する。“主体的な不登校”となり、会いたい人に会いに行く、したいことをすると決めたのだ。「ぼくは小卒」と少し自虐的に語りながらもその判断に後悔はないという。
また、12歳はTKにとっても大きな節目の年ともなった。脳に大きな損傷を負い、兵庫県と病院側を相手に起こしていた医療事故訴訟が結審したのだ。法廷でTKは意見陳述を行う。小児医療事故裁判で、原告となる15歳未満の子供が意見陳述した前例はほぼなかった。
「ぼくは悪いことをしたら謝りなさいと言われています。なんで皆さんは謝らないんですか?」
TKのこの一言に法廷は静まり返り、その時初めて県と病院側は謝罪した。