渡辺錠太郎が殺害された客間兼居間。後年、渡辺邸が解体される前に撮影された(杉並区立郷土博物館所蔵)
さらに、30名の襲撃部隊の指揮を執った一人、熊本出身の安田優(ゆたか)少尉は当時、渡辺邸のすぐ近くにある姉夫婦の家に寄宿していた。そのため、事件の2日前に急遽、渡辺大将襲撃を打診されたという。公判調書にはこうある(以下、安田優「蹶起将校公判調書」)。
〈その時(2月24日)、坂井中尉より斎藤内府襲撃後第二次の行動として、渡辺教育総監を坂井部隊が担当することになっているが、安田は同総監邸の付近に住んでいるそうだから、よく研究しておいてくれ。同総監の襲撃は高橋少尉と共にやってくれといわれましたので、始めてその時自分の襲撃目標を知ったのであります〉
実は、襲撃当日になっても、安田少尉は渡辺大将を「殺す意思はなかった」という。これも、同じ調書に証言が残っている。
〈昭和維新断行は軍の協力一致にあれば、渡辺総監も一体となるためにこれを求めんとして、官邸にまず迎えるということが真意であったのですから殺す意思はその時まではなかったのであります。而(しこう)して正門から行きました私達は、単に総監を殺すならば裏門から行けばよいということを判っていたが、殺すのが目的でないので厳重なる戸締まりのある正門に向かったのです〉
◆「誰もくそあるものか」
しかし、最新刊『渡辺錠太郎伝』(小学館)が話題の歴史研究者・岩井秀一郎氏は、この言葉を額面どおりに受け取ることは難しいという。
「荻窪にあった渡辺総監の私邸は、一般の家よりも大きな邸宅ではありましたが、それでも個人宅であることに変わりはありません。そこに、軽機関銃や小銃で武装した30人近い兵士が押しかけている時点で、“殺害が目的ではなく、陸相官邸に迎えようとしていた”とする証言は、にわかには信じがたいと思います。仮に、安田少尉自身はそう考えていたとしても、襲撃を指示した上官たちは最初から殺害を計画していたと考えられます」(岩井氏)