1970年、183日間で6421万人以上が訪れた日本万国博覧会の入場者数は2010年の上海万博に抜かれるまで、万博史上の最高記録を保持した。それから50年が経った。
「祭りは人間の生き方、文化の体質を変える衝撃でなければならない。無駄をしなければ人間は膨らまない」
テーマ館プロデューサーである岡本太郎は強い決意を胸に秘めていた──。“人類の進歩と調和”を掲げた日本万国博覧会(通称:大阪万博)は、1970年3月14日に大阪・千里丘陵で開会式が行なわれた。
日本にとって国際博覧会の開催は悲願だった。明治期に構想は2度あったが実現せず、1940年開催予定の「紀元2600年記念日本万国博覧会」は前売券まで販売されたものの、日中戦争により延期という名の中止に追い込まれた。
終戦後、高度経済成長を遂げていた日本は、甲子園球場83個分に及ぶ約330ヘクタールの会場で、「戦後復興の総仕上げ」に挑んだのだ。
当初、客足は鈍かった。開幕日には53万人の入場者が予測されたが、27万4124人に留まり、その週は1日20万人に届かない日々が続く。しかし、徐々に口コミで面白さが伝わっていった。万博には“未来の日本”があったのだ。
国内外のパビリオン数は計116。電気通信館には携帯電話やテレビ電話が並び、人々はその目新しさの虜になった。アメリカ館は空気膜構造を応用し、柱のないエアドームを作った。この工法は、のちに東京ドームなどに取り入れられている。