戦中と交通事情も異なる中、まずはソウルへと飛び、北朝鮮との国境・臨津江へ。そこに架かる鉄橋をかつて国際列車が駆け抜けた時代、朝鮮半島~中国~ロシアを結ぶ京義線は〈欧亜の鉄路〉とも呼ばれ、大正2年には〈東京発パリ行き〉の切符も販売。〈一枚ノ切符デヨーロッパヘ〉〈日数約十四日〉などと謳われた夢の鉄路はしかしその後度々遮断され、今もって北緯38度線越えの復活は果たされていない。
「鉄道は我々をワクワクさせ、旅情を誘う一方、当時の鉄道は国家的野心と密接に関係していた。道なき荒野に鉄路を敷いて有効化し、その利権が戦争で争われてきた構図など、暗い歴史を孕むのもまた事実なのです。
例えばうちの親父がいた鉄道聯隊は、日清戦争後に編成された鉄道大隊に源流を持ちます。〈軌匡(ききょう)〉という特殊レールを使った延伸や敷設を担う一方、戦局次第では破壊工作も行ったらしい。鉄橋をある時は壊せと言い、ある時は直せと命じるのが、戦争の身勝手さなんです。
日清・日露・日中の3つの戦は、大陸進出の野心に駆られた日本の侵略戦争だと私は思っています。今回ハルビンを訪れた時に、『少し遠いけど731部隊の遺構がある』と聞いてセンセイと行ってみたんです。
するとそこにも線路があり、『思えばこの先はアウシュビッツに繋がっているのか。当時日本とドイツは線路の端と端で酷い実験をしていたのか』と、1本の線で繋がった感じがしました。むしろ日露は日露、2.26は2.26と、出来事を単体で見るから見誤る気がして、事の前後左右や時空も跨ぎ、鉄路で1つに繋ぐ本が書けないかと思ったんです」