中国側が「歴史を無視」して「条約を蹂躙」したというのは、日清戦争(1894〜1895年)・日露戦争(1904〜1905年)を経て日本に認められた満蒙における諸権益を、蒋介石率いる中華民国側が認めようとしなかった状況を指している。この指摘は、当時陸軍が国民に向けて盛んに宣伝していた主張にも沿っている。

 だが渡辺は、その上で満蒙や戦争に対する身近な人々の意見を紹介し始める。それらは、軍の喧伝に感化されていない、拍子抜けするほど率直な“世論”となっている。

戦争を忌避する世論を紹介

〈そうして、かくのごとき議論に対して、わが国民の大部もしくは一部はどんな感想を持っているか、ひそかに私はこのことを考えまして、先月の初め台湾を発ちまする時機に、台湾における有力な新聞記者に満蒙問題についてあまり台湾の新聞に書かないじゃないか、これだけ重要な問題についてはもう少し書いたらどうかという話をいたしましたところが、その記者は、満蒙と台湾とはあまり縁がない、したがって今日まであまり書かなかった。こういう返答でございました。

 また私は最近に三重県、岐阜県、千葉県等に出張をいたしまして、それらの出張先で知人の訪問を受けた時分に、これらの問題について皆がどう考えているだろうかを訊ねてみましたところが、ある者は今日かくのごとき不景気の時に万一、戦争でも起こったならば、なおいっそう不景気になるだろう、それは困る。ある人は今の世の中に戦争などをやられては堪ったものじゃない、戦争はどんなことがあってもやってもらっては困る。また、ある一部の人は、ことに若い学生などの中には、ほとんど満蒙という問題は意に介しておらぬというような人にも出会ったのでございます。

 言い換えますれば、今日の時局において万一、帝国が力をもってこの満蒙問題の解決を図るということになりますれば、あるいは戦争にならんで済むかも知れませぬが、都合によると戦争になるかも知れない。戦争になっては困る。すなわち戦争を恐れる人、かくのごとく重大な問題についてもほとんど意に介しない人に、私は狭い範囲でございますが、出あったのでございます。〉

 渡辺のこの認識について、『渡辺錠太郎伝』著者で歴史研究者の岩井氏はこう解説する。

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