2013年、故郷で先祖の墓参りをした菅氏(時事通信フォト)
実は由利自身も大学受験に失敗し、菅と同じように家出同然で上京した口だという。
「私が勤めたのは東京のメリヤス問屋。うちを出たのが卒業したすぐあとで、その1週間くらいあとに大将も上京したと聞きました」
由利はメリヤス問屋に2年半ほど勤めたのち、秋田に戻り、家業の鉄工所を継いだというが、菅はそのまま東京にいて法政大学に入り直した。つまるところ、この頃の菅は父親に反抗して家を飛び出した放蕩息子にすぎない。公式サイトによれば本人は〈アルバイトを続け、これまたさまざまな職場で働き、学費を稼ぎながら大学を卒業〉したと記しているが、その実、仕送りも受けている。
菅の実父和三郎は地元で知られた存在だった。戦中、満州に渡り、国策会社の「南満州鉄道」に勤めたエリートだ。戦後、満州から引き揚げると、いちご栽培で成功をおさめ、地元雄勝町の町会議員を務めた。菅はそんな地元の名士の“お坊ちゃん”であり、父和三郎は義偉少年にとって煙たい存在だったに違いない。
満鉄の現場監督
菅は終戦から3年半後の1948年12月6日、父和三郎と母タツの長男として秋田県雄勝郡秋ノ宮村に生まれた。2人の姉と弟がいる。いわゆる団塊の世代である。秋ノ宮村は55年に院内町、横堀町が合併して雄勝町となり、さらに2005年3月に湯沢市に編入された。あきたこまちで有名な米どころだ。
が、実はもともと菅家は農家ではない。菅の実父和三郎は戦前の1918(大正7)年に生まれ、2010年に92歳で鬼籍に入った。いちご生産出荷組合長のあとを継いだのが、同じ雄勝町に住む小島貞助だ。
「和三郎さぁのお父さん、義偉さぁの祖父であるところの喜久治さぁが明治26(1893)年生まれで、うちの親父と同級生だったからよう知っとる。喜久治さぁは分家で、菅の本家も近くにあったんだなす」