コロナ禍で苦戦する全国の映画館を応援しようと、4人の映画人がオンライン・トークショーを行っている。『ミニシアター押しかけトーク隊「勝手にしゃべりやがれ」』と題したイベントでは、賛同した劇場で上映された作品について、荒井晴彦(脚本家、映画監督)、森達也(映画監督、作家)、白石和彌(映画監督)、井上淳一(脚本家、映画監督)の4氏がオンラインで縦横無尽に語る。その模様は、上映直後の映画館の観客が観覧できるほか、YouTubeでも公開されているが、ここではそれを活字化してお届けします。最初の作品は、『仁義なき戦い』。前編、後編の2回に分けて掲載します(文中一部敬称略)。
リアリズム路線だと思った
井上:皆さんと『仁義なき戦い』の出会いから伺いたいと思います。まず白石さんから。
白石:僕は最初は、中学生の時にVHSのビデオで見ました。僕は北海道の旭川の田舎だったんで、名画座もなくて20歳の時に東京に出てきてから文芸坐で『仁義なき戦い』の一作目(1973)を見て、あとは名画座でやっているときに、その都度見たって感じですね。
井上:一作目を見て一気に『仁義なき戦い 完結篇』(1974)まで行っちゃったの?
白石:いえ、いかなかったです。一作目で人物の相関図がわからなさ過ぎて(笑)。その熱量はすごく面白いなと思ったんですけど。やっぱり今まで見てきた映画とちょっと違っていて怖かったですね。ふつうに銃で撃たれたら痛がるし、撃つ時にビビッて撃ったりしているし、最初はそういう印象でした。
井上:それまでほかのやくざ映画って見ていたんですか。
白石:ほぼ見てないですね。Ⅴシネの『ネオチンピラ 鉄砲玉ぴゅ~』(1990・高橋伴明監督)とかは見ていましたけど。
井上:それで映画を志して東京に来て見始めてからはどうでしたか。
白石:それは衝撃でしたよね。ぼくは中村幻児さんが主宰する映像塾に行ったんですけど、そこの顧問が若松孝二監督と深作欣二監督だったんです。深作監督も時々来て、呑みに連れてってくれたりしたんで、『仁義~』の時の話を聞いたりしてました。
井上:森達也さんは『仁義なき戦い』の舞台である呉出身ということですが。
森:出生地は呉ですけど、生まれて数週間で引っ越しているから、まったく記憶にないのです。広島には何度も行っているけど、呉はずっと縁がない。高校1年で初めてデートしたとき、彼女から「映画を見に行こう」って言われて、「何がいいの」って聞いたら、「『仁義なき戦い』を見よう」といわれて。でもぼくは『燃えよドラゴン』(1973)を見たいと言ったら、「じゃあ、いいよ、『燃えよドラゴン』にしよう」と彼女が言って、結局その時は『仁義なき戦い』は見れなくて、ちゃんと見たのは大学へ入ってからですね。池袋の大学だったから、文芸地下でたぶん『仁義なき戦い』の5本立てオールナイトだったと思う。
井上:荒井さんが『仁義なき戦い』をご覧になったのは1973年のリアルタイムですか。
荒井:当然でしょう。何を言ってんのかね、君たちは(笑)。VHSで見たなんて驚いちゃうね。封切りは1973年の正月だよね。正月だから新宿まで行かないで、小金井の家から近い立川の東映の南座で見たんだと思うけどね。
井上:『仁義なき戦い』は今までのやくざ映画とは圧倒的に違ったわけじゃないですか。どんな感じを受けたんですか。
荒井:一番えっと思ったのは指の詰め方も知らない菅原文太が指を詰めると、それがポーンと跳ねて、鶏がくわえていっちゃうみたいなところで、あ、これは完璧に今までの任侠やくざ映画を否定しているんだ、リアリズム路線だと思った。本当はカッコ良くないんだよということをやっているんだと思って驚いたね。だからものすごく面白かった。のらりくらりと平気で裏切る金子信雄の山守組長がすごいと思った。脚本を書いた笠原和夫さんは金子信雄の芝居はやり過ぎだよって言っていたけど。