【2001年 タフィ・ローズ(近鉄)】
来日6年目、押しも押されもせぬ球界を代表するスラッガーとなったローズは、9月24日の西武戦で松坂大輔から55号を放ち、ついに王の記録に並んだ。近鉄は優勝を決め、残り5試合は記録更新に専念できる絶好の環境にあった。
そのうち3試合目は王監督率いるダイエー戦だった。1番に起用されたローズの第1打席は敬遠で、その後も勝負を避けられ、ボール球に手を出して2打席凡退したが、実質的には勝負してもらえなかった。ダイエー投手陣が投じた18球のうち、ストライクは2球だったとされる。結局、その他の4試合でもローズは56号を打てなかったのだが、ダイエー戦の「敬遠指示」が後に問題となった。
「王監督は試合前、ローズに“60本打てよ”と声をかけていて、自分の記録が抜かれることをそれほど気にしていなかった。しかし、監督不在のコーチ会議で、若菜嘉晴コーチが55本の記録を更新させないことにこだわり、そのなかで“いずれアメリカに帰る選手に記録を作らせるな”と発言したことがスッパ抜かれて問題になり、コミッショナーから警告を受けて、結局退団することになった」(当時の担当記者)
【2002年 アレックス・カブレラ(西武)】
10月2日に55号を放ち、前年のローズに続いて王の記録に並んだ。残るは2試合。5日のダイエー戦では、ローズのケースと同様、ダイエー投手陣はまともに勝負しなかった。そして14日のロッテとの最終戦では全打席勝負してもらったものの4打席ノーヒットに終わり、記録更新はできなかった。
記録はいつか抜かれるためにある、とも言われるが、「世界の王」があまりにも偉大だったために、多くの球界裏面史が生まれることになったのだろう。涙をのんだ3人の助っ人たちもまた、球史に深くその名が刻まれている。
取材・文/鵜飼克郎(ジャーナリスト)