第118代後桃園天皇は第119代の光格天皇の父ではない
だが、ここにもう一つ問題が生じた。『彦九郎山河』から引く。
「〔光格〕天皇は、父典仁親王が『公家諸法度』の規定によって、その席次が五摂家と大臣の下位とされ、路上で大臣に出会う折も輿からおりる定めになっているのを痛々しく思っていた」
要するに、光格天皇は遠縁の先帝から皇位を継承したのはいいが、存命の実父は宮廷での格が低く、上級の貴族の前で頭を下げなければならなかったのだ。そこで「上皇の号を贈ろうと考えた」のだが、幕府はこれを拒否する。
高山彦九郎ら勤皇派の人士は「天皇の孝心から発した」要求を幕府はなぜ容れぬかと怒りを新たにしたが、幕府は「君臣の名分を私情によって動かすべきでない」(『日本史大事典』)と拒否した。
ここに心情論(天皇側)と法律論(幕府側)の対立が観察できる。
さて、明治維新を経て明治十七年、典仁親王は明治政府によって慶光天皇と諡号が追贈された。
【プロフィール】
呉智英(くれ・ともふさ)/1946年生まれ。日本マンガ学会理事。近著に本連載をまとめた『日本衆愚社会』(小学館新書)
※週刊ポスト2021年1月1・8日号