美輪明宏が1971年まで使用していた旧芸名(本名)で1965年7月にキングレコードから発売されたシングルレコード
「1960年代後半から70年代前半のフォークソング全盛期は、歌詞全体の文脈や行間から、政治的あるいは反社会的なメッセージをとらえたうえでの規制でした。さらに、放送禁止用語の概念がマスメディアに広まり始め、差別用語などの言葉自体が問題となり、結局は曲全体が規制の対象になる傾向が表れ始めます。
こうして規制は増殖し、フォークソング以外にも飛び火。さらには過去の曲までさかのぼり、『竹田の子守唄』が被差別部落を歌ったものとして放送禁止の烙印を押されたのもこの頃だといわれています」(森さん)
母親の無償の愛を歌った『ヨイトマケの唄』
なかでも、1965年に丸山(現・美輪)明宏が発表した『ヨイトマケの唄』は衝撃的だった。いわゆる「日雇い労働者」について歌っていたために、大ヒットしているにもかかわらず、いつのまにか放送の表舞台から姿を消したのだ。サウンド・パフォーマンスを行うアーティストで“放送禁止歌”に詳しい、とうじ魔とうじさんは、その理由について次のように語る。
「歌詞の中に出てくる『土方』という言葉が、放送禁止用語だからといわれていますが、一部では『ヨイトマケ』にも差別的な意味合いがあるといわれています。これを民放連が『要注意』と判断したのでしょう」
『ヨイトマケ』とは、建設現場などで重いものを滑車で上げ下げするときの掛け声で、その作業を行う人のことを示す言葉。「エンヤコーラー」と掛け声をかけながら働く母親の姿を描いた世界観を、「貧しい家の子に対する差別」と考えた有識者がいたのだ。しかし、この歌を作詞作曲した丸山に言わせれば、そんな指摘はお門違い。この歌は、自分の子供のためなら何を失っても構わないという母親の思い、無償の愛を歌ったものなのだから。
実際、1964年に東京・銀座の銀巴里で初めて歌うと、歌い出しの歌詞で笑いが起きたが、歌い進むうちに真顔になっていき、エンディングでは客の目に涙が浮かび、嗚咽が聞こえてきたという。
翌年(1965年)3月のリサイタルで披露したところ大反響となり、その翌月、『木島則夫モーニングショー』(NET〈現在のテレビ朝日〉)の歌の紹介コーナーで歌ったところ、直後からテレビ局の電話が鳴りやまず、「もう一度聞きたい」という投書が1週間で2万通も届いた。3週間後に再度テレビで披露し、レコード発売が決定した。しかしその後、「『ヨイトマケの唄』が放送禁止歌に指定された」と民放各局から連絡が来る。
《〈有識者〉といった人は、「土方」を差別用語だと決めつけました。でも、彼らは「土方」について何を知っているというのでしょうか。この言葉のどこに、差別が宿っているというのでしょうか。「裏方」「地方」「親方」といった言葉も差別用語なのでしょうか。》(美輪明宏・著、PARCO出版・刊『愛の大売り出し』より)
丸山は「難癖」だと憤ったが、曲を聴いた人たちから数多くの手紙を受け取り、無償の愛のメッセージが届いているとわかり、うれしくなったという。が、放送禁止歌とされたため、長く放送の電波に乗ることはかなわなかった。