困窮したおばさんは救われるが、おじさんは救われない。内藤さんは困窮していないが、そうなるかもしれない恐怖はあるという。それでも福祉レベルで金のないおっさんは救われるかもしれないが、内藤さんのような一歩手前の孤独なおっさんは救われない。
「キモくて孤独なおっさんでも人並みに働いて生きています。だからせめて、心で思うのは構わないから容姿で差別しないで欲しい。不快な顔は自覚してますから、ほっといて欲しい」
これまでになく真剣な内藤さん、訴えたかったであろう言葉の重みが痛いほど伝わってくる。以前の二号警備と比べても、介護と理不尽な利用者からの仕打ちと職場の人間関係は辛いのだろう。まして本来は天職であったはずの保育の仕事には戻れない。いくらでも求人はあるはずなのに、ずっと落ち続けているという。
「もう応募はしてませんけどね。40過ぎの醜いおっさんを雇う保育所なんてないですよ。見かけもなにも関係ない二号警備が一番楽だったかな。まさか老人ホームでもこんな目に遭うとは思いませんでした。警備に戻ることも考えています」
女性とつき合った経験もなく、保育、工場、介護、警備、そしてまた介護と40歳を過ぎて漂流を繰り返す内藤さん。話すととても楽しく、誠実で、むしろ好感を持てるのだが、社会のルッキズムは内藤さんに牙をむく。
「ブサイクでも結婚できるとか、それはブサイクを補うほど魅力ある人の話で、キモいだけのおっさんには当てはまりません。マスクで顔を隠してもブサイクなんて、ほんといつも言ってますけど僕の人生、罰ゲームみたいな人生です」
内藤さんは自虐でマスク越しに笑う。他人に決めつけられた呪いで道化を演じる必要はないというのに、自分の容姿であえて笑いをとりにいく。
「これも処世術なんですよ、しょうがないんです。キモくて孤独なおっさんなりに生きていかなければいけませんから」
コロナ禍なんのその、はしゃぐマスク姿の子どもたちを眺めながらつぶやく内藤さん、十分言いたいことは伝わった。もういいだろう。元気づけようと人魚のローラに足が生える話に変える。大好きなプリキュアの話に内藤さんは嬉しそうだ。保育士時代は誤解されたが、内藤さんは女の子の「かわいい」が好きなだけのオタクで、むしろプリキュアになりたいおじさんだ。プリキュア、性別や世代関係なく元気をくれる、いい作品だと思う。
「これから先、あの子たちが僕みたいな目に遭わないない社会になればいいなと、それだけです」
これも訴えたかったことだろう。筆者も同感である。ルッキズムの継承だけは避けなければならない。せめて私たちの代で終わりにしよう。
人間である限り、美しいものやカワイイものに魅かれるのは当然だ。それを生まれながらに手にした人が生きる武器に使うのもまた当然の権利だろう。内藤さんだって筆者だってかわいらしい女性キャラクターは大好きだ。しかしそうでないものを醜いとしてむやみに傷つけたり、あからさまに嘲笑したりする必要はない。偉い作家様であろうとも、そんな昭和の化石にはご退場願うしかない。キモい孤独なおっさんに対する理不尽な差別を容認し続けることは、おっさんだけにとどまらず女性が長く苦しんできた容姿主義も含め、すべてのルッキズムの正当化に繋がってしまう。
ブサイクな男には何を言ってもいい、キモいおっさんはどうなってもいいという感覚もまた、昭和の遺物として終わりにすべき時が来ている。
【プロフィール】
日野百草(ひの・ひゃくそう)/本名:上崎洋一。1972年千葉県野田市生まれ。日本ペンクラブ会員。出版社勤務を経てフリーランス。全国俳誌協会賞、日本詩歌句随筆評論協会賞奨励賞(評論部門)受賞。『誰も書けなかったパチンコ20兆円の闇』(宝島社)、『ルポ 京アニを燃やした男』(第三書館)。近刊『評伝 赤城さかえ 楸邨、波郷、兜太から愛された魂の俳人』(コールサック社)。