オリパラの「お祭り」でコロナ禍に順化
東京では、今回の緊急事態宣言の発令中にオリンピック・パラリンピックが開催されている。これにより、宣言での「自粛」とオリパラでの「お祭り」という全く正反対のメッセージが人々に出されている。
こうなると、人は易きに流れがちだ。つまり、受け入れたいお祭りのメッセージだけを聞き入れて、自粛のメッセージには耳を貸さなくなる。その結果、「コロナは心配しなくても大丈夫」といった、コロナ軽視の楽観バイアスが生じる。
昨年の最初の緊急事態宣言のときには、誰もが未経験の事態に直面したことで、社会全体で自粛に努める動きがみられた。しかし、緊急事態宣言が何度も繰り返されるうちに、人々に「馴れ」が生じて、その実効性は薄れていった。
これは、生物学の「順化」という現象に相当する。異なる環境に移された生物が、しだいに馴れて、その環境に適応した性質を持つようになることを指す。人々はコロナ禍に順化してきたといえるだろう。
2通りあるパンデミックの「終息シナリオ」
それでは、新型コロナのパンデミックは、いつどのようにして終わるのか? たぶん多くの人々が、陰に陽にこの問いを発しながら日々生活しているはずだ。
昨年5月にニューヨークタイムズ紙で報じられた内容によると、アメリカの歴史学者はパンデミックの終わり方には2通りあると述べている。
1つは「医学的な終息」で、罹患率と死亡率が大きく低下して、まさに感染が終息する。もう1つは「社会的な終息」で、人々の病気に対する恐怖心が薄れてくることで終わるというものだ。
社会的な終息は、医学的に病気を抑え込むことによって終わるのではなく、人々が疲弊したうえで、病気とともに生きるようになることで、パンデミックの状態が終わるというものだ。今回の新型コロナでも、同様のことが起こっているといわれる。
ただし、歴史学者によれば、実際にどのように社会的な終息に至るかは感染症ごとに異なる。
たとえば、感染症の終息を社会的・政治的に決めるにしても、実際に誰がどのように宣言できるのか。また、終息の理由を人々が納得できる形で説明できるのかなど、さまざまなことが見えてこないという。