スマイル、白い歯、フィーバーを生んだ新庄氏(写真は2005年)
そのうち、ナイター後は球場から寮までの500mほどを移動するために、梅本氏が車で迎えに行くようになった。ただ、梅本氏は「大変だったけど、グラウンドで結果を出してくれて、面倒を見る甲斐のある選手でしたね」と付け加える。
「自由奔放に見えるかもしれませんが、4畳半ぐらいのスペースの新庄の部屋にはゴミひとつなかった。部屋の入り口にはなぜか暖簾がかかっていて、室内にはオーデコロンが振りまいてありましたが、片づけで新庄に文句を言った記憶がない。あのプレーを見ていたら几帳面だとは思えないでしょうけど、本当にええ子でしたよ」
そんな新庄氏と同じ時期に独身寮にいたのが1988年のドラフト1位で入団した中込伸氏だ。新庄氏より2年先輩の中込氏は、1990年代の阪神を主力投手として支えたが、中込氏の述懐は、梅本氏の証言とも重なってくる。
「新庄という男は根がマジメで、わざとハチャメチャをやっている感じですね。本当は礼儀正しい。鬼寮長から怒られるのはいつも亀山(努)で、新庄は怒られたことがない。悪いことをしないというか、腹が立つようなことをしないんですよね。でも、ナルシシストなのは間違いない(笑)。いつも鏡を見ていましたから」
寮では麻雀卓も一緒に囲んだが、「新庄は、役満しか狙わなかった」というエピソードを明かす。
「新庄はね、字牌が5枚あると国士無双に走る。七対子で仕上がる手でも、四暗刻を狙う。ほとんど上がることがないけど、上がったら役満。0か100の麻雀でしたね」
それでも、選手としての新庄氏への信頼は厚かったと続ける。
「投げていて、新庄がバックで守ってくれていると安心なんですよね。たまにとんでもないところに返球するけど、ラッキーゾーンがなくなった広い甲子園でも、新庄と亀山がいると、外野を抜かれる心配はなかった。
ただ、僕がいまでも覚えているのは、背番号のことです。新庄がメジャーに行くかどうかが取り沙汰された2000年オフまで、僕は背番号『1』をつけていた。そうしたら新庄が“中込さん、1番をください。それをもらったらメジャーに行きません”と言い出した。だから球団に“1番は新庄にやるから、55番にする”と伝えたんです。それなのに新庄はメッツに行ってしまった。さすがにズッコケましたよ」
そして中込氏は、「まあ、新庄はそんなこと忘れているでしょうけどね」と付け加えてまた笑った。
(第2回につづく)
※週刊ポスト2021年12月24日号