NHKドラマスペシャル『ごめんねコーちゃん』(1990年)で、岩谷時子役を演じた俳優の竹下景子(撮影/篠山紀信)
越路版『愛の讃歌』は急遽、生まれた
越路が『愛の讃歌』を初めて歌ったのは1952年。日劇のショーでのことだった。ショーのトップを務める二葉あき子さん(享年96)が急に声が出なくなり、その代役として越路が歌うことになったのだ。
このとき、越路に歌うようすすめたのは、作曲家の黛敏郎さん(享年68)だった。ただ、歌詞は英語。越路が日本語で歌うことにこだわったため、岩谷が急遽、日本語訳をつけることになったのだ。当時のことを、岩谷はインタビューでこのように振り返っている。
《テープも何もないころでしょ。(編集部注・黛さんが)弾きながら(編集部注・『愛の讃歌』の意味を)説明して下さいました。訳してもらいながら、けいこ場のピアノの上で「あなたの燃える手で」って書きました》(『わたしの流儀 ひたむきに生きる女性たち』より)
『愛の讃歌』は1963年に47才で亡くなったフランスのシャンソン歌手、エディット・ピアフの大ヒット曲。ピアフは、飛行機事故で亡くなったプロボクサーの恋人を思い、“愛する人のためなら、髪の色も変え、国も友も捨ててもいい”といった内容の歌詞を書いている。
ピアフの歌詞が身を焦がすような情熱的なものであったのに対し、岩谷の訳詞は、夫婦や恋人の普遍的な愛を描く内容だった。
これについて、音楽ディレクターで『岩谷時子音楽文化振興財団』の理事を務める草野浩二さんは、次のように語る。
「原詞には、“空が落ちて来たとしても”なんてフレーズがありますが、これは越路さんの雰囲気には合わない。越路さんは女優だから、その歌詞に生きる女性を表現することはもちろんできるけれど、越路さんには男女の恋だけでなく、もっと広い意味での愛を歌ってほしい、と岩谷先生は思ったのではないでしょうか」
岩谷が手がけた越路版『愛の讃歌』は200万枚以上のヒットを記録。現在も数多くの歌手にカバーされている。
人気作詞家へ
訳詞家として評価を得た岩谷は、作詞家としての仕事が増えていく。
「1950年代まで、日本の音楽業界は専属制を取っており、歌い手だけではなく、作詞家や作曲家もレコード会社に所属している人しか曲を作ることができませんでした。
それが1960年代以降、後発のレコード会社が専属制を取らず、あらゆる才能に作詞を依頼するようになった。その才能というのが、青島幸男さんや永六輔さん、そして岩谷時子さんだったのです」(田家さん)