それからトランジットする外国人と国内便に乗ってきたロシア人が集められ、バスに乗せられて、部屋をあてがわれた。
いや、宿は私の目には簡素に見えたけれど、木枠の窓は人の背ほどの高さがあったから、それなりに高級だったのかもね。でも、その窓が壊れて閉まらないのよ。9月半ばとはいえモスクワの風は冷たくて、このまま寝たら絶対に風邪をひく、と思わず身震い。バスタブの底に虫の死骸があったり、栓がなかったのはがまんできても、吹きっさらしの部屋で寝るわけにはいかない。
それでフロントに行って、身振り手振りで、窓が壊れていて寒くてたまらないと伝えたら、「マダーン、ジャストモーメント、マダーン」ときた。で、部屋を交換してくれるかと思って待っていたら、手渡されたのはゴツゴツして重たい毛布2枚。これで体をくるんで寝ろということよ。
問答無用。冗談も言えない雰囲気に私たちは完全に気圧された。
それから間もなくソ連はロシアになって、さらに長い歳月が流れたある日、古い知人が「夫です」と連れてきたのは、格闘家かと思うほど体格のいいロシア人。人懐こい笑顔で完璧な日本語を話す彼、パーシャと彼女は地方で起業したという。パーシャはすっかり日本社会になじんでいて、居酒屋で飲んだときも、「ハイ、おしょうゆ」なんて言って、人数分の刺身小皿に注いだりしているの。
その彼が酔って言った言葉がいまでも耳にこびりついて離れないんだわ。「ソ連時代って、国の中はパラダイスだったんだよ。仕事が終わったらみんなで集まって飲んで歌って。競争がないから仕事はテキトーでいいし、争うことなんてほとんどない」。
彼が少年のような目をして思わぬことを言ったので、「でも、そういう社会を作るのに、とんでもない血が流れたと私たちは聞いているよ」と冷や水を浴びせると、「それはそうだけど、どこにでもあることじゃないんっスカ」と口の中でモゴモゴ。「クニ」の話はそれきりになった。
社会主義国家で生まれ育った人と話したのは、後にも先にもこのときだけ。私たち世代は生まれてこのかた、銃も軍人も見ずに育って、戦争はなくて当たり前だ。その当たり前がそもそも間違い、勘違いで、向こうには向こうの理屈も正義もあるんだろうなとは思う。
その数年後、パーシャは離婚してロシアに帰ったと風の便りに聞いた。彼はいま頃、どうしているのだろう。
【プロフィール】
「オバ記者」こと野原広子/1957年、茨城県生まれ。空中ブランコ、富士登山など、体験取材を得意とする。
※女性セブン2022年3月31日号