この遺書宛名の一人に、静子夫人が入っている。つまり、当初乃木は一人だけで死ぬつもりだったのだ。それは当然で、広い意味ではすべての日本人は天皇の臣下と言えないことも無いが、やはり陸軍大将としての乃木は他の日本人とは違う。そもそも天皇は大日本帝国の統治者であると同時に陸海軍の大元帥つまり総司令官でもあるのだから。戦国時代の殉死の例を見ても殉死者の妻が一緒に死んだというケースはあまり無い。だから、その報に接した人間のなかには次のような感想を漏らす人もいた。

〈「おい、本当だ」
 と、その記者はすぐ電話の前から、皆の方へ向って大声に叫んだ。
「下女が電話口へ出て本当です、と言うんだ。奥様もやはり一緒だそうだ」
「何が一緒だ」
 とOが口を出した。
「一緒に自殺したというんでしょう」
「では心中だな」
 と小柄な社会記者Wは鋭い声でやったので、皆がどっと笑った。乃木大将という観念と心中という言葉とがあまりに不釣合いだったからだ。
「だって、そうじゃねえか。男と女と一緒に自殺すりゃ、誰の場合だって立派に心中だ」〉
(『明治大正見聞史』生方敏郎著 中央公論新社刊)

 生方敏郎(1882-1969)はいわゆる「文人ジャーナリスト」のハシリとも言うべき人で、群馬県沼田町の出身。早稲田大学英文科卒業後、『東京朝日新聞』の記者を務めた。観察力に富んだ実録エッセイは得意中の得意で、この『明治大正見聞史』も名著と評価が高い。引用したのは大喪当日の夜の話である。

 朝刊の締め切りが近付き、殺気立った新聞社内に生方は詰めていた。そこへ電話がかかってきたが、受けた記者は最初は「悪戯も言い加減にしろ」と電話を切り、もう一度かかってきたときは「馬鹿」と一言怒鳴りつけて電話を切った。つまり、新聞社のなかですら「乃木自殺」などということが一笑に付されるようなあり得ない情報だったことがわかる。

 ところが、通信社の人間が念を押してきた。ちゃんと伝えたからあとで文句を言わないでください、という確認である。さすがにおかしいと思った面々から乃木大将の家に電話してみたらどうかというアイデアが出た。ちなみにこの時代、電話のある家はそれほど多くないが、政府高官には緊急呼び出しがかかることもあるので電話は必ずあった。そこで一人が電話してみると、「下女が電話口に出た」。そこから引用部分に続くのである。

 ところがその後に、大騒ぎになった編集部内にたまたま上がってきていた新聞の印刷を担当する「若い植字工」が、「乃木大将は馬鹿だな」と大声で叫んだ。生方が驚いていると、すぐそのあとに決して若くもない「夕刊編輯主任」が、「本当に馬鹿じゃわい」と続けた。もちろんそれは乃木大将のやったことが愚挙だと言っているのでは無い。このあたりは現代の感覚とまったく同じである。

(第1337回につづく)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/1954年、愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代に独自の世界を拓く。1980年に『猿丸幻視行』で江戸川乱歩賞を受賞。『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』など著書多数。

※週刊ポスト2022年4月8・15日号

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