アドルフ・ヒトラー(写真/AFLO)
映画『独裁者』のラストには、ヒンケルと間違われたユダヤ人の床屋が大群衆に向かって6分間にわたり演説し、民衆の手で平和を掴むことを訴えるという映画史に残る名場面がある。このシーンにも、現代に通じる部分があると大野氏は言う。
『独裁者』のラストの演説は、当時の映画制作の常識を覆すものでした。
実は、ナチスが制作したヒトラーの演説映像のほうが“正統的な映画”の文法に則っていました。ヒトラーが演説する最中に、大群衆の喝采や尊崇の眼差しを向ける兵士の表情のカットが挟まれています。このような“切り返しのショット”を入れることで、演説者を神格化したのです。
プーチンの手法はこれと近く、ウクライナ侵略後、モスクワに20万人を集めて行なった演説で同様の演出が取られました。彼一人で演説するのではなく、同等に彼を崇める大観衆を配置して、自らの神格化を試みました。
対してチャップリンは『独裁者』のラストを飾る演説で切り返しショットを用いず、6分間にわたってカメラをまっすぐ見据えて語り続けました。演者がカメラに向かって延々と語る映画は稀です。チャップリンは斬新な手法で、観客にダイレクトに演説の内容を届けようとしたのです。
そのスタイルを想起させるのがゼレンスキーの演説です。各国の国会で流れたのは、カメラを見つめて真摯に話をする彼の姿でした。まるで『独裁者』のシーンが蘇ったかのような演説は、世界中の人たちにダイレクトに響いたのでしょう。
さらに言えば、最終的に採用されなかったものの、『独裁者』のラストシーンの草稿には、「(チャップリンが)各国に向けて演説し、聞いた人たちが敵味方を超えて踊り出す」というバージョンもあった。ゼレンスキーの戦略との符合に驚かされるとともに、チャップリンという天才の先見性を改めて実感させられます。
映像には“毒”がある
〈『独裁者』の公開でヒトラーのイメージが一変したように、ウクライナ侵略後にプーチンのイメージは一変した。ただし、大野氏は「これは正義が悪に勝ったのではなく、イメージがイメージに勝ったということ」だと指摘する。そして、「毎日悲惨な映像が流れる今こそ、冷静に見る目を持ちたい」と語る。〉
今回の戦争は情報戦を組み合わせた“ハイブリッド戦争”で、21世紀の新しい戦争のかたちだという指摘もありますが、僕はそうは思いません。映像メディアを駆使した戦争の原型はヒトラーが作り、プーチンもゼレンスキーも、そのフォーマットで戦っているように見えます。