政治家と張り合える人材
小野氏は熊高から東大法学部を経て平成元年(1989年)に霞が関で最も権勢を振るう大蔵省に入省した。すると、周囲の期待通り、若手の頃から網走税務署長、大臣官房文書課課長補佐と順調にキャリアを重ねていった。
霞が関官僚の出世レースには人事上の掟がある。
第1段階は同期入省組が課長になった頃、次は審議官以上の「指定職」、その次は局長になる頃に段階的に選別が行なわれ、出世レースに敗れた官僚は次々に退職して天下っていく。
小野氏は2013年に財務官僚の「出世の登竜門」といわれる公共事業担当の主計局主計官に就任、その後、主税局総務課長から、民間企業でいえば役員クラスにあたる「指定職」の大臣官房審議官(主税局担当)に昇進、消費税率引き上げなどで実績をあげて昨年7月に局長級の総括審議官に起用された。
財務省関係者が語る。
「主税局畑の小野氏が総括審議官になるのは異例の人事だが、この人選について、首脳の1人は『彼は永田町の先生方と張り合える数少ない人材だ』と語っていた。エリートの財務官僚には政治家に大声を出されると、ついへいこらしてしまうタイプが多いが、小野氏は自民党の政調の偉い議員にも物怖じせずに物申すことができるところが高く評価されていた」
奇しくも、小野氏が逮捕された5月20日、自民党本部では前日に続いて財政健全化推進本部の会議が開かれ、持ち越しとなっていた財政再建目標の維持という同本部の案が骨太の方針に盛り込まれることが決まった。
本来であれば、小野氏の功績になっていたはずだが、時すでに遅かった。『官僚村生活白書』(新潮社)など官僚に関する多くの著作があるジャーナリストの横田由美子氏が語る。
「小野さんが務めていた総括審議官は、もっぱら政治家回りを担当する役職ですが、人手不足が深刻だった。財務省は岸田政権で行政の主導権を握るために優秀な人材を官邸(内閣官房)に多く送り込んでいる。そのため、政界に根回しする総括審議官のスタッフまで人手が回らず、小野さんの負担が大きくなっていた。次のポストを考えると失敗はできない状況なのに、人手は足りない。相当、プレッシャーがかかっていたのでしょう」