両親も娘も波乱万丈
振り返れば、父娘はずっと一緒に歩んできた。アメリカ・ニューヨークで音楽活動をしていた照實さんと藤さんの間に宇多田が生まれたのは1983年1月。幼い頃から両親のいるスタジオに入り浸り、音のシャワーを浴びて育った。3才からピアノを始めた娘の音楽的才能に、最初に気づいたのは照實さんだった。
「初めてヒカルさんの歌声を聴いた照實さんは『いい声だな』と思い、レコーディングに参加させるようになった。1990年には照實さんと藤さん、ヒカルさんで『U3』という家族ユニットを結成し、3人で本格的に音楽活動を始めました」(宇多田家の知人)
1993年、一家で音楽事務所「U3ミュージック」を立ち上げた。事務所社長であり音楽プロデューサーでもある照實さんが娘をプロデュースする形で、宇多田は1998年12月にシングル『Automatic』で鮮烈デビュー。まだ15才だった彼女の歌声は日本中を魅了した。シングルは200万枚を超えるセールスを記録し、翌年にリリースされたファーストアルバム『First Love』は国内外で1000万枚近くを売り上げた。社会現象と化した宇多田は、以後も父のプロデュースでヒットを連発した。父と娘は、私生活でも多くの話題を提供した。
「このふたり、6回も結婚と離婚を繰り返しているんです。わけわかんない」
かつてテレビ番組で宇多田が両親についてそう語ったように、照實さんと藤さんは離婚と再婚を繰り返し、最終的に「3回離婚・4回結婚」を数えた。宇多田は2002年、映像作家の紀里谷和明氏(54才)と結婚するも、2007年3月に離婚した。
「宇多田さんは結婚当時19才。彼女の仕事へのアドバイスで距離を縮めたという紀里谷さんと、長年の“専属プロデューサー”だった照實さんは微妙な関係だったと囁かれ、『結婚により父娘に不協和音が生じた』と報じられたこともありました」(芸能関係者)
歌手として順調にキャリアを重ねていた宇多田は、2010年、アーティスト活動から身を引いて「人間活動」に専念することを宣言した。そして活動休止中の2013年8月、最愛の母である藤さんが自ら命を絶った。
「その際、藤さんの実兄が、ある週刊誌上で『照實さんの意向で妹の遺体と対面できない』と公表して騒動になりました。しかし直後に宇多田さんがホームページ上で、『母の遺言書に基づいて、母の意向に沿う弔いをした』と反論した。
死の直前まで両親が連絡を取り合っていたことを明かし、『夫婦だとか夫婦ではないなんてこと以上に深い絆で結ばれた2人でした』として、苦境にあった照實さんを擁護しました。一時期は不和が囁かれた父親を守ろうとする彼女の姿勢に、一家の絆を感じました」(前出・芸能関係者)
藤さんの死から半年後の2014年2月、宇多田はイタリア人の一般男性と再婚し、2015年7月に男児を出産した。
《ヒカルは元気に、でも寝不足でも育児に奮闘しています。孫も笑顔を見せてくれるくらい成長しています》
照實さんも音楽事務所の公式ツイッターアカウントから頻繁にツイートして、孫の誕生と成長を喜んだ。母の死、再婚、出産という人生の転機をたて続けに経験した宇多田は2016年にアーティスト活動を再開。同年9月に8年ぶりのアルバム『Fantome』をリリースした。
「ヒカルさんの活動再開を誰よりもサポートしたのは照實さんでした。照實さんは娘と孫の住むイギリスと日本を頻繁に往復し、ブランクのあるヒカルさんが以前のように活躍できる舞台を精力的に整えたのです」(前出・宇多田家の知人)