特別な存在の「鏡」
そもそも、なぜ三種の神器が皇位を象徴する宝物となったのかと言えば、オオクニヌシによる「国譲り」の後、豊葦原瑞穂国(日本)を得たアマテラスはそれを孫のニニギノミコトに与え、同時に三種の神器を授けたからだ。まず鏡を与え「此の鏡は、専ら我が御魂と為て、吾が前を拝むが如く、いつき奉れ(この鏡を私だと思って丁重に祀りなさい)」と言ったことは、『古事記』『日本書紀』双方に書かれている。
ちなみに、この「鏡」と同時に与えられた「玉」は、アマテラスがスサノオの乱暴に怒り「天の石屋」に引きこもってしまったときに、神々がアマテラスを誘き出すために使ったものである。また「剣」はスサノオがヤマタノオロチを退治したとき、その尾から「出現」したものだ。このあたりの物語はなかなか面白いが、詳しく述べる紙数は無いので興味のある方はぜひ『古事記』を紐解いていただきたい。
ところで、こうした記述を読めば三種の神器のなかでもっとも尊い宝は、鏡であることに気がつくだろう。これはアマテラスの「霊代」なのだから。そこで、古代の天皇はこの三種の神器を宮中の寝所の近くに安置し、文字どおり起居を共にしてきた。しかし、これは大変なプレッシャーでもあったろう。日本は木造文化の国であるから火事も怖いし、地震もある。戦争や変乱の余波が御所を襲わないとも限らない。
『日本書紀』によれば、すでに第十代(実質的初代とする説もある)崇神天皇の御代に、「鏡」は疫病を避け別の場所に移された。その後も宮中では「鏡」が祀られているから、このとき「形代(依代)」も作られたのだろう。本体が最終的に伊勢国(現三重県)に祀られるようになった。これが伊勢神宮の起源だ。
原則として天皇の神霊を祀るのが「神宮」(例外もある)で、赤間神宮(山口県)、吉野神宮(奈良県)、平安神宮(京都府)などがそうだが、伊勢神宮は本来地名等を冠しない「神宮」が正式名称なのである。他と違う別格の存在ということだ。また「剣」は、すでに述べたようにヤマトタケルが持ち出し持ち帰らなかったので熱田神宮に祀られるようになった。これ以降、宮中にあるのはやはり形代なのである。
まったくの余談だが、源頼朝の母親は熱田神宮大宮司の娘である。もちろん頼朝が成人したときにはもう亡くなっていたようだが、母の実家の来歴を知っていれば壇ノ浦で「剣」が沈んだときも慌てる必要は無かった。本体は熱田神宮にあるではないか、と言えばよかったのである。しかしそういう主張をした形跡は無い。三種の神器について詳しい知識は持っていなかったのだろう。
すべての歴史情報にアクセスできる現代においても、「三種の神器」問題は理解が難しい。ましてや昔のことだ、この問題について正確な知識を持つ人間は数えるほどしかいなかっただろう。現に、源頼朝のブレーンで歴史通でもあった大江広元もこのことに気がついた形跡は無いのだから。
ともあれ、「玉」だけは本体がずっと宮中に置かれていたこともご理解いただけただろう。現在の皇居ではやはり「鏡」は特別であり、賢所という神聖な特別室に鎮座し、「剣」と「玉」は寝所の隣の塗籠(土蔵造り)の部屋に安置されている。この部屋は「剣璽の間」と呼ばれている。天皇が御所を出て行幸(旅行)されるときは、この「剣」と「玉」を携帯される習慣がいまも続けられている。