もう一つ特筆すべきことは、西園寺がいわゆる「部落問題」にも深い関心を抱いていたということだ。明治になって四民平等は達成されたとは言え、差別は残った。それを象徴するのが「新平民」という呼称である。
〈新平民[しんへいみん]
〈解放令〉によって平民籍に編入された被差別身分に対する差別的呼称。明治維新によって取り組まれた身分制の解体・再編成により、皇族、華族、士族を除くほとんどの〈日本国民〉が平民として取り扱われるようになった。したがって、この時新たに平民籍に編入されたのは、けっして被差別身分だけではなかったが、〈新平民〉と呼ばれたのは〈解放令〉によって平民に組み入れられた旧穢多身分を指す事例がほとんどであった。〉
(『部落問題・人権事典』部落解放・人権研究所刊の「新平民」の項目より一部抜粋 項目執筆者小林丈広)
西園寺は、京大創立の前年で『世界之日本』創刊の年である一八九六年(明治29)十一月、文部大臣として中国・四国地方の学事視察を挙行した際、兵庫県で新平民の小学校を訪問している。これは『西園寺公望公伝』に「稀有」の事例として書かれている事実である。残念ながら公伝の記事は簡潔で、いまのところ詳細な記録も発見されておらず具体的にはどういう状況だったのか、よくわからない。しかし、西園寺はあらゆるところに目配りしていたことがわかる。
「第二教育勅語は時期尚早」
ここで注意すべきは、西園寺も竹越も「リベラル」ではあったが、決して幸徳秋水のように「帝国主義をやめろ」とまでは言っていないことだ。むしろ欧米列強を模範とし、一方で朱子学に根差す偏狭な国粋主義は捨てて世界に開かれた国家になるべきだ、と言っている。つまり、この先設立されることになる国際連盟のような世界的組織の有力メンバーとして日本は活動すべきであって、自国のみが正義であり優秀であるなどという朱子学的排他主義的な国家になるべきでは無い、ということでもある。
結局、大日本帝国は後者の道をいったことはご存じのとおりである。なぜそうなったのかは、結局西園寺が「負け」、桂太郎が「勝った」からである。その直接のきっかけは、西園寺が出そうとしていた第二教育勅語が日の目を見なかったからである。では、当初の疑問に戻ろう。なぜ第二教育勅語は発布されなかったのか? 西園寺の文相としての力量は述べたとおりだ。また、明治天皇にも支持されていた。やはり「保守派による妨害説」は考えにくいのである。
では、病気説はどうか? じつはこれについては『竹越与三郎氏談話速記』という史料があり、竹越自身が証言している。竹越はその後官界に身を投じ西園寺文相の補佐官として第二教育勅語の制定に大きくかかわっていた。いや、彼が特命を受けた担当官だった。そして、すでに紹介した第二教育勅語の文章も固まり、あとは閣議決定をすれば発布できるところまで漕ぎ着けた。ところが、その時点で西園寺は病に倒れた。そこで前にも述べたように、竹越は西園寺の枕頭で閣議を開き、これを承認することを要請したが、伊藤は拒否したので竹越は辞表を出した。
たしかに、これは竹越本人の証言であるから第三次伊藤内閣のときにこの件がいったん「保留」になったのは事実だろう。しかし、これでは申し訳ないが完全な説明にはなっていない。なぜなら、西園寺は死んでしまったわけではないからだ。もし死亡あるいは失脚したのなら、それとともに第二教育勅語は日の目を見なかった可能性はじゅうぶんにある。しかし、西園寺はその後も長寿を保ち総理大臣を歴任し元老にもなっているのだ。いわばいつでも持ち出せる立場にあったし、そもそも第二教育勅語の発布は彼の政治家としての基本姿勢に基づくものではないか。おわかりだろう、なぜ「引っ込めたままその後出さなかったか」まで説明しないと、完全な説明にはならないのである。