順を追って考えてみよう。まず、伊藤首相はなぜ「枕頭の閣議」に反対したのか? 一つ考えられることは、明治人らしい畏れだろう。国家百年の計にとって重要なことであり、しかも天皇の名をもって発表されることを、そのような異常な状態で決めてはならない。そんなことをするのは畏れ多い、という感覚だ。これはいまではまったく忘れられた感覚だが、明治の人々にとってはむしろ常識であった。
ただし、これではそのとき「保留」にされた説明はつくが、その後西園寺が「復活」させなかった理由にはならない。そう考えると、伊藤はもともと西園寺の第二教育勅語には反対だったのではないかという推測が成り立つ。伊藤は西園寺にとっては兄貴分であり先輩でもある。ともに政党政治を日本に確立しなければならないという使命感は持っているが、伊藤は西園寺ほど「リベラル」ではない。憲法についても大隈重信や福澤諭吉が提案した英米流の自由を重んじた憲法よりも、それよりは統制的なプロシア流の憲法を採用した。また、山県有朋などと違って政党政治の有用性は認めていたが、当初は議会など無視する超然主義の立場を取っていた。
ここからはまったくの想像だが、伊藤はこの第二教育勅語は時期尚早と考えていたのではないか。この時点(明治29)では日清戦争にはなんとか勝ったが、まだロシアという大敵がおり三国干渉を仕掛けてきたばかりである。伊藤自身は日露開戦には反対だったが、第一教育勅語の呼びかけた国民の団結をまだ緩めるべきではないと考えたのではないか。伊藤なら「趣旨には賛成だが、しばらく時節を待て」と西園寺に指示できる。いや、そんなことができるのは天皇を除けば伊藤しかいないのである。
(文中敬称略。第1367回へ続く)
※週刊ポスト2023年1月13・20日号