お手本は「東インド会社」
西園寺はこの松田と原で内閣を固め、桂太郎の国家主義的政策に抵抗した。とくに重要なのは、西園寺内閣発足間も無い四月には非公式ながら満洲を視察していることだ。少し先走るが、私は大日本帝国破綻の最大の原因は「満洲に固執した」ことにあると考えている。確かにこの時代、中国で漢民族と満洲族の対立があり、満洲族は満洲を漢民族の土地(=中国)では無く自分たちの故郷である特別な地と考えていた。
だから明治末期から昭和二十年にかけての陸軍いや日本人は、満洲族を援助して満洲を中国から独立させ日本の「与国」にすればよいと考えるようになっていく。それは「帝国主義の先輩」イギリスやフランスが中東やアフリカやアジアでやったことでもある。しかし通常の考え方で言えば、満洲族が漢民族を征服し新しい中国「清」を建国したときに満洲も中国の一部に組み入れられたと考えるべきで、それゆえ当時のアメリカやイギリスも日本に対して「門戸開放」を求めてきていた。
平たく言えば「われわれにも満洲で商売させろ」ということだ。日本が日露戦争に勝ち、満洲の利権を独占していたロシアを排除したから、そういう要求が出てきたのである。ちなみに、日露戦争に勝つためには英米を味方にしなければならないと、日本はしきりに「勝った暁には門戸開放する」というサインを出していた。それを信じて戦後すぐにアメリカの鉄道王エドワード・ハリマンが来日し桂首相との間に桂ハリマン協定が成立したにもかかわらず、これが外相小村寿太郎の画策によって葬られてしまったことは、拙著『逆説の日本史 第二十六巻 明治激闘編』に詳述したところだ。
日露戦争の勝利で、ロシアが満洲に建設していた東清鉄道の一部(長春~旅順間)が日本の所有となった。ちなみに、ロシアが満洲に鉄道を敷設することを清国が認めたのは、日清戦争で負け日本に遼東半島を取られるところだったのをロシアが三国干渉で「取り戻してくれた」からであり、日本にしてみればそのときの怨みを晴らしたことになる。これが満洲経営の基幹になることは誰の眼にもあきらかであり、だからこそハリマンは戦後ただちに来日し日本が「南満洲鉄道」と改称した鉄道の共同経営をもちかけ、一度は協定成立に成功したのである。
日露戦争の主戦場は清国領土内だった。奉天大会戦しかり、旅順要塞攻防戦しかり、である。かつて日本はロシアの呼びかけた三国干渉によって日清戦争の成果である遼東半島、つまり中国大陸への橋頭堡を失った。その憎っくきロシアに日露戦争に勝って、中国大陸内に橋頭堡こそ確保できなかったものの「南満洲鉄道」を手に入れた。それをどのように活用するか? 大きく分けて二つの道があった。
一つはロシアに勝ったことにより韓国は完全に「確保(併合はこの5年後の1910年)」できたのだから、満洲は門戸開放しそのなかで欧米列強と共存共栄を図ることである。もう一つは、日本本土を守り多大な利益を上げるために、韓国はもとより満洲から欧米列強を排除し日本だけの「植民地」として「育成」していくことである。第一次西園寺内閣が成立したとき、日本はこの歴史的分岐点に立っていた。西園寺が首相就任早々満洲を視察したのは、背景にそんな事情があった。
陸軍は、多大な犠牲を払って獲得した満洲の利権を最大限に拡大しようとしていた。だから、ポーツマス条約で定められた期限ぎりぎりまで撤兵しなかった。東條英機の「英霊に申し訳ないから撤兵できない」と同じ考え方であることに注目していただきたい。日本人は「尊い犠牲を決して無駄にしてはならない」という太古からの信仰に縛られている、昔もいまも。旅順要塞攻防戦で日本兵がどれだけ死んだか、あらためて思い出していただきたい。