5人が犠牲になった(写真は当時の現場検証。時事通信フォト)
「早う死刑になればいい」
「3年前の事件のことを、いま取材している者です。東京から来ました。お話を聞かせていただきたいのですが……」
ダメ元で切り出すと、男性は言った。
「いま扉開けるから、中に入りない」
その男性、河村二次男さんは事件当時、友人たちと愛媛県へ旅行に出かけていた。
「(保見は)早う死刑になればいいと思うちょる。でも弁護士のアレで。やってなかったって言いよるけど5人も殺しとるんやけ。火までつけちょるのに。山口で最終弁論があったときにわれわれもいろいろ言ってアレしたけど、やってないっちゅうことはない。犯人はわかっちょるし、火もつけとるんやしね」
方言と、河村さんの滑舌の悪さに、何を言っているのかよく聞き取れなかったが、根気よく1時間も話を聞くと、少しずつ聞き取れるようになってきた。
「片目にもなっちょるし。こっちは目が見えんし。事故でね。鼻水が出そうになるとかむけど、そのとき耳の鼓膜がいってね。診療所行ったら『あんまり聞こえん方がいいですよ』って。あはははは」
かつて車の事故で頭部を負傷し、右目を失明したそうだ。あっけらかんと語る様子に面食らった。たしかに両目の視線の先が合っていない。それでもガレージに停めてある軽トラックを運転するというから驚いたが、この地では車の運転ができなければ何もできないのと同じである。
通された応接間には、壁にびっしりと写真やカレンダーが飾られている。孫娘と笑顔で並んだ写真も大きく引き伸ばされて、貼られていた。山の頂上で撮影された集合写真もある。河村さんはこのとき79歳だと言っていたが、背筋も曲がっておらず、体つきもがっしりしている。かつては活発に友人らと外に出かけていたのだろう。ガラス戸棚の中には、聡子さんに宛てた孫娘からの手紙があった。整体に関する書籍も並んでいる。公務員を定年まで勤め上げたのち、整体の学校に通い、自宅で整体院を営んでいたという。
「わしは天下りをするなと役場で言ってきた。要請があったけど断ってきた。でもそりゃ、定年になったらなんかせんといかん。手を動かしたらボケん、っちゅうからやってみよう、って。1年ほど学校行きまして。60万ぐらいかかったんじゃないかな。1回3000円でやりよった」
こうした四方山話を聞きながら、私は“夜這い”について河村さんにたずねる機会を窺っていた。編集者が持っていた記事にはこうあったからだ。
──私【保見光成】が金峰に戻ってきた直後、竹田(仮名)が、『おめえの兄貴にはイジメられたぞ』って言い始めた/時を同じくして、近隣住民に道で無視されるといった些事から、農機具を燃やされ、挙句に刃物で切りつけられたりと/数多の“事件”が起きたという/先の大戦当時、10代半ばだった保見の兄は、母親に言い寄る徴兵忌避の男を追い払い家を守り抜いた。実は、その男の長男こそ、帰郷直後の保見に「兄貴にはイジメられたぞ」とからんだ竹田だったという──
記事の中で「竹田」という仮名をあてられ、年齢も伏せられている「強姦魔の息子」とは、いったい誰か。最初に手掛かりになったのは「事件後、金峰周辺の人々は、陰でこう囁き合った。『竹田こそが保見の本命じゃったろうに……』」という記述。この書きぶりから察するに、「竹田」は殺害された5人ではなく、7人(事件当時)の生存者の中にいる。
次に、「兄貴にはイジメられたぞ」発言。保見は、山口地裁の一審公判でも、同じ台詞を口にしていた。
「『お前の兄貴にはいじめられたぞ』と、カワムラさんに言われました」