映えていない写真こそ真の思い出(イメージ)
「最近は、地元の写真館でなく、ネット経由でカメラマンさんを手配する学校もあり、知人が働く私立高校がそうでした。そういったカメラマンさんは、確かに写真は綺麗で上手なんですが、生徒や親に喜ばれるよう、写真に過度な修正をかけたりする。まさに、生徒たちが喜ぶ加工を頼まれずともやってくるんです。ごく一部の親子からは好評でしたが、大多数が失敗した、と感じたそうです。いろんな形のアルバムがあってもいいとは思いますが、後から見返したときに恥ずかしくないものである必要はあると思います」(長谷川さん)
修正されすぎた写真が並んだその卒業アルバムは、学生生活の記録や記念というよりも、架空のキラキラした女子学生のInstagram投稿を並べたようなものになっていたのだ。ただし、それは集合写真のみで、個人写真は“実物”だった。チグハグだし、子供たちも「顔が違いすぎる」と笑い合っていたが、その様子を見ていた長谷川さんの心情は理解できる。それでは、平凡だけど楽しかった学生生活を振り返るアルバムとは言えないだろう。
時代と共に変化していくものは、モノだろうが考え方などの思考だろうが多数ある。しかし、実在するモノやコトを、実在したモノやコトとは違った形で残そうとする行為は本当に正しいのだろうか。写真が存在しなかった時代の絵画などとは比較できないが、自分の現在や過去を自身で極端に脚色したり、演出することが普通になってしまうのではないか。そして来歴を詐称するのが当たり前だと考えてしまう風潮が蔓延してしまうのではないか、という不安は残る。
スマホと通信環境が発達して誰でも手元のスマホで多くの情報に接するのが当たり前となったいま、真実よりも画面越しの見た目の美しさ、面白さばかりが重視されがちだ。それが行き過ぎて、真相とは違うのに「いい話だから」「心地よいから」とフェイクニュースであっても受け入れるような風潮はすでに存在している。さらにその風潮は、やはり拡大していると言わざるを得ない。
現実より、一部の人にとってだけ都合が良い偽物の記録ばかりが残されるのは、決して歓迎されるべき兆候では無い。しかし、卒業アルバム制作の現場では、これが当たり前になってきてしまっている現実がある。