日本語は「動詞の時制が少ない」
「驚いたこともいっぱいあります。日本語は名詞に男性・女性の区別がないのに、どうやって会話するんだろう?と思いましたし、最初の頃、『えっ、そうなの?』と思ったのは、単数・複数をその都度はっきりさせるわけじゃないということ。たとえば『あの公園に猫がいて』と言う時、1匹なのか何匹もいるのか、その文からは分からない。そのあとの内容で分かる。最初は不可解というか、慣れなくて、何にでも『たち』を付けたくてたまらない時期がありました(笑)」
日本語を外から見ることのできる、こういうトピックを聞くのは楽しい。他にはどんな気付きがあったのだろう。
「『本を読んでいる時、電話が鳴った』という文の『読んでいる』は過去形じゃないけれど、後ろの動詞が『鳴った』になっているので、この文全体で過去の話だと分かります。本を読んでいるのも過去なのに、動詞が過去形にならない。日本語のこういうところも驚きでした。
イタリア語は、動詞の形がたくさんあるんです。近過去、半過去、大過去、遠過去。それが一人称、二人称、三人称でも変わるし、直説法、間接法、条件法でも変化します。さっきの『本を読んでいるとき、電話が鳴った』という文だったら、『本を読む』と『電話が鳴る』は、違う過去。本を読むのは時間的に長く続いている過去で、電話が鳴るのはその中に一瞬だけ入って来た過去。半過去と近過去のコンビネーションになるんです」
……イタリア語、難しそうだ。でも、時間を細部まで表現できるってすごい。
「動詞の形で、自分がどう思っているかも表現できるんですよ。たとえば『どこかに行った』という事実をひとつ言う時だけでも、動詞の選び方によって、たとえば『実は行きたくなかったんだよね』という気持ちを含ませることができます」
行為に対する気持ちも表現できるのか!
もちろん日本語も「行ったけど」「行ったものの」「行ったのに」「行ったとはいえ」のように、くっつける言葉によってニュアンスを変えることはできる。でも動詞の形そのものは変わらない。言語の「性格の違い」は、知れば知るほどわくわくする。
「日本語の独特な感覚は『~かしら』『~でしょう』『~なの』みたいな、特徴的な語尾にも表れていると思います。この部分はイタリア語ではなかなか再現できないですね。でも、だからこそすごく面白いと感じます。それぞれの言語特有の概念が、表現に対する新しい見方を教えてくれるから。
たとえ母語であっても、考えていることを完全に伝えるのはすごく難しい。イタリア語では言えないけど日本語では言えることもあるし、その逆もある。パターンをたくさん知ると、自分の世界が内側からどんどん広がっていくし、心も豊かになるような気がします。外国語を勉強する楽しさは、それに尽きるんじゃないかな」
【プロフィール】イザベラ・ディオニシオ/1980年生まれ、イタリア出身。ヴェネツィア大学で日本語を学び、2005年に来日。お茶の水女子大学大学院修士課程(比較社会文化学日本語日本文学コース)修了後、現在まで日本でイタリア語・英語翻訳者および翻訳プロジェクトマネージャーとして活躍。
◆取材・文 北村浩子(きたむら・ひろこ)/日本語教師、ライター。FMヨコハマにて20年以上ニュースを担当し、本紹介番組「books A to Z」では2千冊近くの作品を取り上げた。雑誌に書評や著者インタビューを多数寄稿。