東映の監督としては異端の経歴を持つ関本郁夫氏
あるいは高倉健と菅原文太が共演した『神戸国際ギャング』(1975年)の同時上映『好色元禄(秘)物語』でひし美ゆり子に体を張った演技を求め、彼女に女優開眼させるが、あろうことかこんなことが起きる。
「『好色元禄(秘)物語』でお夏(注・ひし美ゆり子の役名)が住職の子を身籠ったと嘘をついて、住職を騙して寺を去るシーンがあるが、それを地で行ってくれればよいのに、本当に身籠ってしまったのである。私のところに一通の結婚披露宴の案内状が来たが、私は行かなかった」(同書190ページ)
自分の映画で演技に目覚めた女優が突然休業してしまう悔しさを、関本は切々と訴える。3年後、ひし美と再会した関本は……。この続きもぜひ本書で。1970年代、東映撮影所にもっとも熱があった時代の激突する人間関係や女優たちと艶めいたエピソードなど、現場に生きた人間しか知らない日本映画の裏歴史がどっさり埋もれている。
関本郁夫は東映の監督としては異端の経歴の持ち主だ。大工の倅として京都に生まれ、伏見高校を卒業後、美術助手として東映京都撮影所に入社。普通であれば、経歴はそのまま美術部スタッフだったろう。ところが1960年代、任侠映画の人気で映画の量産体制に入った東映は助監督が不足し、頭数合わせで関本は制作部の助監督に転属となる。
「関本、お前がいくら頑張っても監督にはなれん。人員補充のために会社に利用されているだけだ」
かつて先輩助監督が放ったその一言に関本は反発し、監督昇進をめざし助監督部が発行する同人誌にシナリオの投稿を続けた。そこでセンスが認められ、彼は1972年、28歳で『温泉スッポン芸者』(監督・鈴木則文)のシナリオを書く。そのチャンスを足がかりに、関本は東大卒・京大卒などエリートしか監督になれなかった大手映画会社・東映で、唯一、高卒で社員監督へ登りつめ、下剋上を果たした。
だが、ようやく手にした最初の監督作の撮影中、主演女優が大怪我をして撮影を中止するという悪夢に見舞われる。映画はお蔵入り? 監督昇進も反故か……という絶体絶命から第二の「処女作」を撮りあげ、さらに負傷した女優を叱咤激励し、中断された映画を再開・完成させる物語は、事実は小説より、いや映画以上に映画的ドラマと思える面白さだ。
そんな関本にも映画界の斜陽は容赦なく影を落とす。1983年、20年以上籍をおいた東映を離れ、彼はフリーランスになった。『映画監督放浪記』の後半部はフリー監督として多くの会社の映画に関わり、大量のテレビドラマも撮り、さらに再び東映に呼び戻されるまでの数奇な人生を描く。
東映で注目された関本が、日活で三越社長・岡田茂と竹久みちの失脚をモデルにした大作『女帝』(1983年)を撮る経緯は映画以上にスキャンダラスだ。『女帝』は日本レコード大賞歌手・黛ジュンが大胆シーンを演じた映画だが、彼女の現場での言動や、なぜかDVD化されない理由の推測など、監督しか知り得ない情報がスリリングに描写される。