2005年に女優・濱崎けい子氏(左)と『宮城野』を演じた堺(写真/芥川仁)
カウンセリング室の隣には演劇部の部室があり、堺は学業や進路を相談するため、伊藤氏の元をよく訪ねていたという。堺が入部した時、演劇部は先輩1人だけ。だが、堺が入るや部員が15?20人に膨れ上がった。
「堺君には人を惹きつける魅力があって、部員が自然と集まるようになったんです。彼が入部してから演劇部が活気づき、レベルも一気に上がりました。頭がよくて意識の高い生徒は孤立することもありますが、彼は決してそんなことはなく、演劇部員や他の生徒たちとも仲がよかった」(伊藤氏)
堺は1年生の時、高校演劇部員の研修会に参加した。そこで講師を務めていたのが宮崎県在住の女優・濱崎けい子氏だ。当時の堺を鮮明に覚えていると語る。
「私は『語り』のクラスの担当で、堺君はいつも中央に座っていました。芝居の台本を学生に配って、『この役、やりたい人』と聞くと真っ先に『ハイ、やります!』と手を挙げるのが彼。他の役を決めようと希望者を募っても、堺君が『ハイ!』と手を挙げて(笑)。とにかく積極的な子でした」
友人も多く、明るい人柄に加えて圧倒的な行動力が、演技の道を突き進む原動力となった。
「堺君たちが3年生の時に、宮崎南高校の武道場で公演した戯曲『飛龍伝』を見に行ったことがあります。傑作でしたね。安保闘争を描いた硬派の作品ですが、大きな楯を持った機動隊と学生が戦う迫力のシーンもあって、“なんてすごい芝居をするんだ”と驚きました。当時の宮崎県は高校演劇が盛んで、私は県大会の審査員もしていましたが、宮崎南高校は台本も芝居センスもピカイチだった。審査員たちは彼らを推し、九州大会に送り出した記憶があります」(濱崎氏)
堺たちが『飛龍伝』の舞台を作り上げていく過程を、伊藤氏が感慨深げに振り返る。
「私は1960年安保と1970年安保の間の時代に早稲田大学の学生でした。堺君が当時のキャンパスの様子や東京の雰囲気をしきりに聞いてきてね。『飛龍伝』にダンスのシーンも出てくるのですが、堺君に“ダンスを習いたいんですけど、誰か教えてくれる人はいませんか?”と聞かれたことがあった。ちょうど同僚の先生に社交ダンスをやっている女性がいらしたので紹介しました。彼女曰く、ダンスのセンスも抜群だったらしいですよ」
堺は大学受験で国公立を目指していたが、結果的に早大文学部へ進学し、「演劇研究会(劇研)」に所属する。この選択が功を奏す。
(後編に続く)
※週刊ポスト2023年8月11日号