日比谷音楽祭実行委員長で、音楽プロデューサーの亀田誠治さん(59才)。1964年米ニューヨーク生まれ。東京事変のメンバー。椎名林檎(44才)、平井堅(51才)、スピッツ、GLAY、いきものがかりなど多数のアーティストの楽曲に携わる。写真提供:日比谷音楽祭
このように、人々の記憶に残る伝説をいくつも生み出している野音は、次第に若者の憧れの場所と化していく。当時の野音をよく知る、音楽プロデューサーの亀田誠治さんは、少年時代の思い出をこう振り返る。
「野音はワクワクさせてくれる場所だったので、中高生の頃のぼくにとっては憧れの場所でした。
なかでも忘れられないのは、1980年にジョン・レノン(享年40)が銃弾に倒れたときの追悼集会が野音であったこと。新聞か何かで、追悼集会の様子を見たときに衝撃を受けて、ここに参加したかった!と思った記憶が残っています」
この3年後、野音は再び改修工事に入り、現在の形となる。
事故で変わった野音のあり方
1980年代に入ると野音の自由な気風はさらに高まっていく。
「観客との距離が近すぎるためか、観客が興奮しすぎてステージに駆け寄るなんてこともありました」(菊本さん・以下同)
1984年8月には『アトミックカフェ’84』で、尾崎豊さん(享年26)が高さ7mの照明具から飛び降り、左足を骨折。這いつくばりながら、ステージ上で歌い続けたライブも伝説となった。そして、1987年には悲しい出来事が起こってしまう。
「100年の歴史で、一度だけ観客が将棋倒しになって死亡事故が起きたことがあります」
当時、若者の間で絶大な人気があったロックバンド『LAUGHIN’NOSE』が野音での演奏中、興奮したファンがステージに駆け寄り、それに続いたファンが転倒、下敷きになり死者3名、重傷1名、軽傷19名の計23名が被害にあってしまう。
「当時はいまのように厳しくなかったのですが、事故が起こったことで警備体制が厳しくなりました。演奏中、観客は自分がいる指定の場所から動いてはいけないという決まりができたのも、この事件がきっかけです」
(第3回につづく)
取材・文/廉屋友美乃
※女性セブン2023年9月28日号
