キャンディーズ一覧

【キャンディーズ】に関するニュースを集めたページです。

田中好子さんの最後の晩餐が分かった
田中好子さん 最後に食べたハンバーグと病床で欲した山の上のおにぎり
 想像したくないことではあるが、誰もがいつか“その時”を迎える。多くの人に愛された著名人は“最後の晩餐”として何を選んだのか? 1970年代に一世を風靡したキャンディーズの元メンバーで、スーちゃんの愛称で親しまれた田中好子さん(享年55)。グループ解散後は、女優として数々の映画やドラマに出演し、1989年の主演映画『黒い雨』で主演女優賞を受賞した。しかし、2011年4月に逝去。田中さんは最後のときにどんな食事をしていたのか。(※文中は敬称略)退院後の束の間の時間、心を癒やした自宅での食事 マネージャーとして27年間を共にした丸尾由美子さんが、田中と最後にゆっくり食卓を囲んだのは、2011年2月。田中が十二指腸潰瘍を患い、3か月間の入院をした後のことだった。丸尾さんは体力が落ちていた田中を気遣い、食事を作りに自宅へ通っていた。「3か月間、食事どころか水を飲むこともできない絶食状態の後だったので、少しでも好きなものをと思い、食べやすい小さなハンバーグを作りました。やっと退院ができて、田中もほっとした様子で食べていました」(丸尾さん) しかし、この後すぐに、再び体調を崩して入院。病は知らぬ間に一気に進行していた。「病室で食べたいものをたずねると、『尾瀬の山の上で食べたおにぎりが食べたい』と答えました。9か月前に仕事の特番で訪れた、尾瀬の山小屋の塩おむすびのことでした」(丸尾さん) 奇しくも田中の最後の仕事は、2011年3月7日に行われた同番組のナレーション。病院から車でスタジオに向かい、収録を行ったという。みんなが愛したスーちゃんは、最後まで女優人生を全うした。病床でもう一度食べたいと願ったおむすび 2年間ナレーションを務めた仕事の特番で訪れた尾瀬での様子。体を動かすことが好きだった田中は、自然と触れ合う山歩きを心から楽しんだ。病に倒れる約3か月前のこと。 竹皮に包まれた具なしのおむすびが2つに、たくあんが添えられただけのシンプルな昼食。尾瀬でのロケ中、自然の中で食べたおにぎりは、記憶に残るおいしさだったのだろう。※女性セブン2022年1月20・27日号
2022.01.11 16:00
女性セブン
1978年の世界歌謡祭でグランプリ(時事通信フォト)
円広志『夢想花』ヒット後、売れなくなり初めて大人になった
 大ヒット曲を生み出すと、人生が一変する。それによって、大きな失敗も引き寄せてしまうこともある。それらを経験したからこそ今があると話すのは、1978年のヒット曲『夢想花』を作詞作曲し、歌った円広志。一度聞くと忘れられない「とんで」を9回繰り返す『夢想花』が生まれ、売れなくなって堕落した経験について円が振り返る。 * * * 大学時代に結成したバンドが大阪で結構人気があったんですが、メンバーの就職などで解散を余儀なくされ、もう音楽ができなくなると思うと辛かった。その心の叫びを形にしたのが「とんで」が繰り返される『夢想花』でした。曲ができた瞬間「売れる、金になる」と直感しました。今までにない曲でしたから。 デモテープをヤマハの人に聴いてもらうと「面白いからポプコンに出ろ」と勧められ、ポプコンと世界歌謡祭でグランプリを獲り、レコードデビューしたんです。当時すでに結婚していた嫁に仕事をやめさせて一緒に上京しました。『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)、『ザ・ベストテン』(TBS系)などの歌番組に出まくり、取材日には1日8社のインタビューを受けました。調子に乗りましたよ、大スターになったみたいに(笑い)。でも、2曲目以降が売れず、3か月でみんなの前から消えました。 円広志という人間に魅力がなかった。だから曲に力がないと売れない。ただそれだけの話ですよ。売れなくなってから夜遊びを覚えました。何しろ金と時間はたっぷりありましたから。昼過ぎに起きてパチンコに行き、夜から朝まで飲む。1年ちょっとで2000万円ぐらい飲んだんじゃないですか。堕落していくのは分かっているんですが、落ちていく感覚が快楽でした。3年ぐらい経ち、金も底を突き、仕事もすべてなくなり、大阪に戻りました。それでも文句を言わない嫁に助けられました。 大阪に戻り、またロックをやるとファンが増えました。音楽しか知らなかった青年が堕落を経験して人として幅ができ、多少の色気も出てきたからじゃないですかね。その後、島田紳助さん、やしきたかじんさん、上沼恵美子さんらに可愛がられ、今に至ります。『無想花』がヒットし、売れなくなり、僕は初めて大人として成長できたんです。●まどか・ひろし/1953年、高知県生まれ。『よ~いドン!』(関西テレビ)のレギュラー、『かんさい情報ネットten.』(読売テレビ)のコメンテーター。森昌子の『越冬つばめ』の作曲家。著書に『パニック障害、僕はこうして脱出した』(詩想社)ほか。【1978年のヒット曲】『UFO』(ピンク・レディー)/『微笑がえし』(キャンディーズ)/『カナダからの手紙』(平尾昌晃・畑中葉子)/『Mr.サマータイム』(サーカス)/『時間よ止まれ』(矢沢永吉)/『わかれうた』(中島みゆき)※週刊ポスト2020年6月12・19日号
2020.06.04 16:00
週刊ポスト
SMAP、キャロル… 解散後1人で歌う楽曲にファンの胸中は
SMAP、キャロル… 解散後1人で歌う楽曲にファンの胸中は
 大好きだったグループが解散してしまい、もう聴けないと思っていた曲が、再び聴ける。再結成なら大喜びだろうが、1人のメンバーが歌うだけだったら、どうだろうか。解散からまだ3年あまり、元メンバーの動向にモヤモヤするのがSMAPファンたちだ。「新しい地図」の3人に続き、リーダーの中居正広(47)も所属するジャニーズ事務所を退所。その会見の8日後、NHK『SONGS』でソロデビューしたばかりの木村拓哉(47)が新曲とともにSMAPの名曲『夜空ノムコウ』を披露した。 五角形のエンブレムのセットがSMAPを想起させるとし、SNSで「木村さん五角形(星)の中で夜空ノムコウ歌ったんだね。泣けてくる」といった感動の声が上がる一方、「夜空ノムコウはやっぱり5人がいいなぁ。淋しい」と戸惑いの声もある。「ほかの4人はジャニーズを離れていますが、ファンは再結成をあきらめていない。木村さんがひとりでSMAPの曲を歌ったことに“嬉しいけど再結成はないってこと?”と寂しがっているファンもいる」(芸能ジャーナリスト・三杉武氏) 1人の元メンバーがグループの楽曲を歌うケースが、トラブルに発展したこともある。伝説的ロックバンド「キャロル」の矢沢永吉(70)とジョニー大倉(故人)の“係争”だ。「矢沢さんはキャロル解散後にいち早く著作権と肖像権を管理する音楽出版社を立ち上げ、キャロルの権利も一括管理してソロで歌い始めた。そんな矢沢に大倉は『キャロルは矢沢だけのものじゃない』と批判を繰り返しました」(音楽関係者) その後も大倉がキャロルのセルフカバーアルバムを出そうとするも矢沢が許可せず、一部楽曲が収録できなくなるなど、ファンは複雑な思いを抱え続けた。 対照的なのがザ・タイガースだ。「ジュリーこと沢田研二(71)はソロになってからもタイガース時代の歌を歌い続けていますが、彼が再結成をずっと願ってきたからです。メンバーと連絡を取り続けて奔走し、2013年には44年ぶりでオリジナルメンバーを集めた再結成コンサートにこぎ着けた。その“タイガース愛”を知っているからこそ、ファンもジュリーが一人で歌うタイガースを認めているのです」(前出・三杉氏) 法的には他のメンバーの許可などなくても、グループ時代の曲を歌うことは可能なのだという。「事前のアーティストと事務所との契約で、事務所移籍後の芸能活動の制限に関する条項が入っていない限りは、音楽の著作権を管理するJASRACに使用申し込みをして、使用料を払えば楽曲の使用は可能です」(著作権に詳しい虎ノ門法律特許事務所代表の大熊裕司弁護士)※週刊ポスト2020年3月20日号
2020.03.13 11:00
週刊ポスト
ミキちゃんファン石破茂氏 伊藤蘭コンサートをどう見たか
ミキちゃんファン石破茂氏 伊藤蘭コンサートをどう見たか
 2月半ばから、キャンディーズの元メンバーで女優の伊藤蘭(65)の全国ツアーが開幕した。伊藤は昨年、キャンディーズの解散以来41年ぶりに歌手活動を再開。コンサートは大盛況で今回の「アンコール公演」もすぐに決まったという。 公演では“キャンディーズ色”を前面に出し、『春一番』や『やさしい悪魔』、『ハートのエースが出てこない』など大ヒット曲を熱唱している。 しかし、ランちゃん、スーちゃん(田中好子)、ミキちゃん(藤村美樹)、3人揃ってのキャンディーズ。ファンは伊藤の“ソロキャンディーズ”をどんな思いで聴いたのか。 高校時代からファン歴47年を誇り、特に熱烈なミキちゃんファンだという衆議院議員の石破茂氏はこう話す。「去年のランちゃんのコンサートにも行きましたよ。やはり3人そろっての姿を見たい気持ちはあるけれど、スーちゃんは他界しているし、ミキちゃんは引退しているから叶わない。多少しっくりこなくても、よくぞやってくれたと思いました。 40年以上ぶりで今はまだぎこちないかもしれないけど、毎年やってくれたら馴染んでいくはず」※週刊ポスト2020年3月20日号
2020.03.12 11:00
週刊ポスト
カメラ小僧の歴史、大ベテランが語る熱狂と進行する草食化
カメラ小僧の歴史、大ベテランが語る熱狂と進行する草食化
 戦後、カメラが普及して個人の趣味の領域に拡大すると共に、そのレンズは「アイドル」へと向けられるようになった。キャンディーズやピンク・レディー、そして1980年デビューの松田聖子を筆頭に始まったアイドルブームは、カメラ好きの若者たちを熱狂させ、「カメラ小僧(カメコ)」へと変貌させた。いまも現役で活躍するカメラ小僧・S氏が当時を振り返る。「僕は1977年に日比谷野音でやったキャンディーズの解散コンサート前夜祭のために、発売されたばかりのビクターの家庭用ビデオカメラを買い、彼女らの“普通の女の子に戻りたい!”というシーンを撮影したんです。当時はどこでも撮影OKというおおらかな時代でしたからね。しかもその時のキャンディーズの写真をアイドル誌が高く買い取ってくれた。僕は“これで生きていける”と確信したんです」 S氏いわく、当時は写真週刊誌などがカメラ小僧の写真を買い取ることや、撮影依頼を行なうケースまであったという。そのためカメラ小僧は、「売り専門」に走る者と、雑誌への投稿・掲載を生き甲斐とした「趣味型」の2タイプに分かれた。アイドルに詳しいライターの北川昌弘氏が解説する。「当時は日本橋三越などのデパートの屋上でアイドルが新曲のお披露目をしていましたが、大抵ミニスカ姿で曲の合間にくるりと回る動きがあった。そこでパンチラを狙って撮影し、投稿する流れができたのです」 前出・S氏は1980年代の“撮影現場”の熱狂ぶりをこう語る。「カメコの命は『情報』と『準備』です。ネットがない時代に確かな情報を得るためには人海戦術が必要だったので、あの手この手を使いました。彼女たちが現場入りする前に到着していましたし、常に“この位置からこう撮れる”という事前のロケハンも欠かさなかった」 しかし2000年代に突入し、カメラ小僧を取り巻く環境は大きく変わった。「収録現場で一般客を押しのけようとする過激なカメコが問題になったんです。アイドルのパンチラ撮影を防ごうとする芸能事務所側の動きもあって、コンサートや番組に撮影規制がかかったため、次第に衰退していきました」(北川氏)◆橋本環奈でカメコの「地位」が向上した カメラ小僧の撮影フィールドは何もステージの上だけに限らない。1990年代に入って多くのカメラ小僧が向かったのは「サーキット」だった。「レースクイーンブームの到来も大きかったですね。毎週末、セクシーな彼女たち目当てにサーキットに通うファンが増えた。アイドルと違って、近くで頻繁に話すことができたのが魅力でした」(前出・S氏) そんなブームも落ち着き、2010年代からは徐々に新たな風潮が広がってきたという。現在30代で大学生の時からカメコとして活動するU氏は言う。「ももいろクローバーZのような地下アイドルが登場したことで、売れる前のタレントを応援する機運が高まってきました。また、2013年に当時はまだ福岡のご当地アイドルだった橋本環奈をカメコが撮影した一枚が“千年に一人の逸材”としてネットで拡散されたことも大きい。いまのカメコは“草食系”なのでパンチラより綺麗な写真を撮りたいんですよ(笑い)」◆取材・文/河合桃子※週刊ポスト2020年2月7日号
2020.01.30 16:00
週刊ポスト
新旧カメラ小僧が集結
カメラ小僧歴42年の66歳男性 いまだ失われぬ熱い気持ち
 カメラ小僧(カメコ)全盛期の1980年代を中心に活躍した昭和世代のカメコ2人と、現在も活躍する若きカメコ2人による世代を超えた座談会を開催! 新旧カメコたちが熱い想いをぶつけ合った。カメコA:僕のカメコデビューはキャンディーズの解散コンサートだからカメコ歴42年。当時は収録番組や紅白歌合戦ですら一般撮影OKだったから、まさに天国だった。カメコB:懐かしいね。僕は現役ではないけど、16歳から5年間カメコの活動をして人生で一番濃密で熱い時間を過ごしました。僕の最高のスクープは菊池桃子のジャージ姿です!カメコC:私は大学2年生からでカメコ歴は5年。一番の成果は自分が撮った写真が橋本環奈ちゃん本人のツイッターに投稿されたことですね。カメコD:お~、この写真は僕も見たことがあります! 僕はカメコ歴10年です。後に人気タレントになるような女の子がジュニアモデルとして活動している時に見出して、追っかけて撮るのが好きです。いわばダイヤの原石を見つけるような。A:僕らの全盛期はネットなんてないからアイドルの親衛隊や、時にはマネージャーとも仲良くなって彼女たちの予定や動線の情報を掴み、いかに先回りして写真を撮るかに命を賭けてた。B:そうだね。バイク乗りの追っかけと仲良くなって車移動するアイドルの居場所を教えてもらったり(笑い)。C:凄いですね……。今そんなことしたらオタクのファンに「こいつはこんなことをしてる」ってネットで晒されてます。D:僕らはアイドル自身が喜んでくれる綺麗な写真を撮って、直接本人にあげたりしますよ。B:昔じゃ考えられない! でも僕にもこんないい思い出がありますよ。30年以上前の話ですが、学校の隣のビルから望遠レンズでおニャン子クラブのメンバーがいる教室を監視し、ブルマ姿になる体育の時間を待ってたんです。そしたらクラスメイトが僕の存在に気付いたの。そして「これが見えたら手を振ってね」と書いたノートをこちらに向けて手を振ってくるから、僕も手を振り返したりね。無邪気な思い出もあるんですよ。C:いい時代ですね!A:当時は撮っちゃいけない所で撮ることこそ燃えたからね!D:いまはダメです。僕はアイドルのママと仲良くなって、許可を取って撮らせてもらいます。A:その発想は僕らにはない。綺麗な写真はメディアに任せて、友達との登下校中に見せる素顔なんかが見たかった!B:まぁ好かれるか嫌われるかは違うけど、好きな人を撮り続ける幸せは同じだよね。C:きれいにまとめましたね。でもその通りです。A:僕は今年66歳ですけど、いまだに誰も撮ったことがない瞬間を撮りたいと思う。D:かっこいい(笑い)。僕も熱い気持ちは忘れません!【プロフィール】カメコA:ジャニーズからアイドル、スポーツ選手までオールジャンルで撮影するカメコ界の“神”的存在/カメコB:全盛期は「菊池桃子を撮らせたら日本一」と言われたカメコ。現在は引退し会社員/カメコC:橋本環奈やモーニング娘。などのアイドルを中心に撮影。主にライブやイベントでの写真を得意とする/カメコD:ジュニアモデルやソロシンガーなど、売れる前のタレントを見出して撮り続けることをモットーとする新世代のカメコ◆取材・文/河合桃子※週刊ポスト2020年2月7日号
2020.01.30 07:00
週刊ポスト
「学園祭の女王」杉本彩
一世を風靡した「学園祭の女王」、なぜいなくなったのか
 毎年、10月~11月末にかけて、全国の大学で行なわれる「学園祭」。学園紛争で荒れた1960~70年代、学園祭は学校のあり方を問う場であったが、1970年代後半からは様変わりする。メディア評論家の宝泉薫氏はこう解説する。「始まりはキャンディーズの登場と言えます。1972年のデビュー当時、人気が振るわなかった彼女らでしたが、学園祭のゲストとして招かれた際のライブで人気に火がついたと言われています」 その後、1980年代にアイドル黄金期が到来すると新曲披露の場として学園祭は格好のステージになる。「それまで新人アイドルがデパートの屋上で新曲をお披露目していたように、学園祭を回ることが定番化しました。当時のアイドルにおいて同世代の男性ファンは最大のターゲット。学園祭巡りはレコードの売り上げにも影響を与えたため、斉藤由貴や南野陽子といったCMやドラマで人気があったタレントも積極的に行なっていました」(宝泉氏) アイドル文化に詳しいライターの尾谷幸憲氏は「呼ばれるタレントは時代ごとに様変わりしていった」と話す。「当初はアイドル歌手で盛り上がっていましたが、1980年代半ばは山下久美子や白井貴子のようなロック系女性ヴォーカリストが呼ばれるようになった。とにかく騒ぎたい、叫びたい大学生たちの欲求に応えました。 1980年代終盤から1990年代にかけては、杉本彩やSHIHOのようなセクシー路線が人気を博すようになりました。いずれの時代も、アイドルは今のように簡単に会いに行ける存在ではなかったため、自分が通う大学に芸能人がいるというギャップが学生たちに受けたんです」 しかしSNSが普及し、タレントとの距離が近づいた昨今は、かつてのように“女王”と呼ばれる存在はいなくなった。「ステージを数分で盛り上げられるお笑い芸人が台頭しました。また2014年にAV女優の紗倉まなが東大で恋愛論を語ったように、各大学で独自に旬な人を呼ぶのが最近の潮流です」(尾谷氏) あらゆるモノが多様化した現代では、“学園祭の女王”は君臨できないようだ。取材・文■河合桃子 写真■ロケットパンチ※週刊ポスト2019年11月8・15日号
2019.11.01 07:00
週刊ポスト
斉藤慶子ほか、50周年『週刊ポスト』表紙女性 80年代編
斉藤慶子ほか、50周年『週刊ポスト』表紙女性 80年代編
『週刊ポスト』がこの8月で創刊50周年を迎える。1969年に創刊された同誌は、表紙に各時代で活躍した女優や女性タレントたちを起用して話題となった。中でも1980年代はアイドル隆盛の10年だった。松田聖子は1980年11月14日号に初登場。1月発売の迎春特大号などを飾る機会が多かった。1986年には“美少女”の先駆け、後藤久美子が12歳で表紙デビュー。本誌カバーガール史上の最年少を記録する。 こうして10代アイドルの占める割合が増えていく一方、樋口可南子や坂口良子、古手川祐子、賀来千香子という正統派美人女優も合併号などで数多く顔を出してくれた。 1986年7月の鈴木保奈美、1987年7月の森高千里など、デビューしたばかりの美女をいち早く起用することも。1988年の創刊1000号は、大人気の“バラドル”だった井森美幸が飾っている。 ここでは、1980年代に『週刊ポスト』の表紙を飾った女性たちを紹介しよう。◆斉藤慶子(1984年4月20日号) 熊本大学在学中の1982年、「JAL沖縄キャンペンガール」に選ばれて芸能界入り。◆多岐川裕美(1980年9月12日号)『柳生一族の陰謀』『俺たちは天使だ!』などのドラマで人気に。◆浅野温子(1981年4月24日号) 1981年の映画『スローなブギにしてくれ』で、小悪魔的な女性を熱演し話題に。◆田中好子(1980年10月10日号) 1978年のキャンディーズ解散で引退したが、1980年に女優として復帰。◆河合奈保子(1982年2月12日号) 1980年に歌手デビュー。1981年の『スマイル・フォー・ミー』で紅白初出場。◆賀来千香子(1983年7月1日号) モデルを経て、1982年に女優デビュー。1986年には『男女7人夏物語』に出演。◆古手川祐子(1984年5月4日号) 清純派女優として人気を博し、1983年の市川崑監督『細雪』では四女を好演。◆後藤久美子(1986年4月11日号) 1986年、NHK『テレビの国のアリス』で女優デビューし、翌年にはNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』に出演。今年12月27日公開の新作映画『男はつらいよ お帰り 寅さん』で山田洋次監督からの熱烈なオファーを受け、23年ぶりに女優復帰する。◆鈴木保奈美(1986年7月25日号) 1986年にドラマ『おんな風林火山』に主演し、数多くのトレンディドラマに出演。◆菊池桃子(1986年8月15日号) 1984年より清純派アイドルとして人気に。1986年には25万人握手会実施。◆酒井法子(1987年5月22日号) 1986~1987年のテレビ番組『モモコクラブ』で人気を博し、1987年に歌手デビュー。●撮影/秋山庄太郎 文/岡野誠※週刊ポスト2019年8月16・23日号
2019.08.07 16:00
週刊ポスト
当時のスタッフ撮影の思い出の1枚(提供/ポール岡田)
ザ・カーナビーツのポール岡田氏が語るGS斜陽「涙のライブ」
 1960年代後半から1970年代前半にかけ、「ザ・スパイダース」や「ザ・タイガース」などグループ・サウンズ(GS)が一世を風靡、若者の心を鷲掴みにした。しかし社会現象とまでなったものの、GSブームは約5年ほどの短命に終わる。あの熱狂と興奮は何だったのか──。1967年に『好きさ好きさ好きさ』でデビューした「ザ・カーナビーツ」ドラム&ボーカルのポール岡田氏が、あの熱く短かった時代を振り返る。 * * * 僕がロック・バンドに興味を持ち始めたのは、ビートルズやローリング・ストーンズが席巻し始めた1960年代中盤。日本ではエレキ・ギター追放運動が教育現場を中心に起きていた時代でした。 滋賀の県立の進学高校に通っていた僕は、1年後輩の長戸大幸(後にZARDやB’zなどを輩出したビーイングの創業者)の誘いで、学校内でロック・バンドを結成、「クラシック・ギター同好会」という偽りの名称で演奏会を敢行しました。 音楽的才能とプロデュース力も備えていた長戸君とは大学に入ってからも一緒に結成したWEEDSというバンドで、大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」や「パラカ」、京都の「ニューデルタ」などに出演したり、審査委員長が浜口庫之助さんだったバンド・コンテストで自分たちのオリジナル曲を演奏して優勝したこともあります。別のコンテストでは、『サティスファクション』を演奏したファニーズに優勝を奪われました。後のタイガースですね。 その後、僕はある音楽関係者の誘いを受け、長戸君の引き留めを振り切って独りで東京へ。しかし、それは辛い試練を課された最悪の時間でした。 半年後、もうロックを諦めて学業に専念しようと考えていた時、大阪の「ナンバ一番」で知り合ったパロッツのリーダーでドラマーの井上シゲルと再会。「バンドが東京のカーナビーツの事務所に所属が決まったが、ボーカルが抜けることになって困っている。やってもらえないか?」と言われ、OKと伝えました。 5人編成のバンドはザ・キャンディーズと名前を新たにして、中馬込の壊れそうな一軒家で合宿生活を開始。そして1968年11月に御徒町の「東京」というジャズ喫茶でザ・ライオンズを対バンに上々の東京デビューを飾りました。キャンディーズは1969年に入っても「銀座ACB」、「新宿ACB」、「ドラム」、「新宿ラセーヌ」など都内のジャズ喫茶を中心にライブをこなし、ファンも順調に増えていきました。◆GSの斜陽を感じた1969年9月「涙のライブ」 しかし、3月頃にカーナビーツのボーカルだった臼井啓吉さんがグループを脱退することになり、事務所から僕にカーナビーツのボーカルをやってもらいたい、そしてモッチン(アイ高野)と一緒に頑張ってほしい、と言われました。その後キャンディーズのメンバーにも説明があったが、リーダーのシゲルが「俺も辞める」と言葉を放った不機嫌な表情が忘れられません。 1969年5月から僕はカーナビーツの正式なメンバーとなり、アイ高野、越川弘志、喜多村次郎、岡忠夫と共に活動を続けました。しかしこの前年くらいから、GSシーンには斜陽の影が色濃くなりました。 公演出発時の羽田空港の送迎デッキには多くのファンが見送りに集まっていましたが、公演先の別府国際観光会館大ホールでは、緞帳が上がると1500人以上収容できる客席の前方3列が埋まっているだけというショッキングな状況。事務所はアイ高野とポール岡田の新しいコンビで再浮上を画策していたようですが、メディアはGSを一過性のブームとして捉えていたようで、再浮上は難しい状況だったと思います。 夏過ぎに喜多村次郎と岡忠夫が脱退。残されたメンバーはサポート・メンバーを加えてライブをこなすだけの状態。そんな中でもアイ高野はステージに上がると変わらぬショーマン・シップを発揮してファンを楽しませていました。彼から学んだことは多かったですね。 同年9月末、銀座ACBの夜の部を最後にカーナビーツは解散しました。その夜は脱退した次郎君と岡君も戻ってきて、満員のファンの人たちに喜んでもらえました。ファンの皆さんの涙声につられて、モッチンも、リーダーだった越川君も、僕も泣きました。 カーナビーツ在籍は5か月。キャンディーズと合わせても僅か10か月の僕のGS時代。スタートが遅すぎたけど、人生の貴重な時間でした。【ザ・カーナビーツ】1967年、ゾンビーズ(英国)の『I Love You』を日本語でカバーした『好きさ好きさ好きさ』でデビュー。ドラム&ボーカルのアイ高野がスティックを突き出すキメポーズも話題になりヒット。人気グループとなり、それ以降も日本語カバー作品を多数発表。グループの名付け親は当時『ミュージック・ライフ』の編集長だった星加ルミ子で、ロンドンのカーナビー・ストリートに由来する。メンバーは越川弘志(リードギター)、喜多村次郎(サイドギター)、岡忠夫(ベース)、アイ高野(ドラムス)、臼井啓吉(前期ボーカル)、ポール岡田(後期ボーカル)。※週刊ポスト2019年6月28日号
2019.06.22 07:00
週刊ポスト
アルバムは5月29日に発売
キャンディーズ解散後 1度だけ3人で歌った『微笑がえし』
 昭和を代表するアイドルグループ、キャンディーズの「ランちゃん」として絶大な人気を集め、女優として活躍してきた伊藤蘭が、令和の幕開けとともにソロ歌手としてデビューする。後楽園球場における伝説の解散コンサートから41年、アルバム『My Bouquet(マイ ブーケ)』が5月29日に発売される。 ランちゃん時代と変わらぬ笑顔で楽しそうに再始動を語る伊藤。6月には東京と大阪でソロコンサートも開催する。「1人でステージに立つのは初めてのことなので、今からドキドキしていますが、皆さんと同じ時間を共有して『楽しかった!』と思っていただけるよう精一杯務めたいなと思っています。 キャンディーズ時代の曲ですか? お客様が喜んでくださればいいんですけど……。『3人じゃなきゃイヤだ』って言われないかしら(笑い)」 メンバーの田中好子が残念ながら2011年に他界したため、3人のハーモニーを生で聴くことはもうできない。キャンディーズ世代としてはソロでも歌ってくれることを期待するが、伊藤によると、解散後、3人がプライベートで『微笑がえし』を歌う機会が一度だけあったという。「私の家に2人が遊びに来た時、何となくそういう雰囲気になって、アカペラで歌ったことがあるんです。誰かに聴いてもらうのではなく、自分たちのために歌う楽しみ方もあるんだということをその時発見しましたね」 そう懐かしむ伊藤にキャンディーズ時代の想い出を尋ねると、「地方に行った時、いつも3人一緒に同じ部屋に泊まったことが、修学旅行のようで楽しかった」と明かしてくれた。 一方、当時開催されていた芸能人水泳大会は苦手な仕事だったようだ。「水着の仕事はそのたびに抵抗していて、数回程度の記憶しかないんですけど、実際は結構やっていたみたいで(笑い)。幸い、当時の所属事務所からは『絶対に嫌だと思うことはしなくていい』と言われていたので、その言葉が支えだった気がします」 その後、俳優に転身した伊藤は平成元年に水谷豊と結婚。そして令和元年に、歌手と女優の二足の草鞋を履くことを決意した。「歌い始めたからには、お芝居もやりながら、新しい世界を作っていきたいですね。そのためには心身ともに健康な状態でいないと。私は皆さんが観てくださる視線に生かされていると思っていますので、これからも見守っていただけたら嬉しいです」●いとう・らん/1955年1月13日生まれ、東京都出身。1973年、キャンディーズのメンバーとして歌手デビューし、NHK紅白歌合戦に3回出場。1978年に解散し、一時芸能活動を引退。1980年、映画『ヒポクラテスたち』に出演し、女優として復帰。以後、舞台、映画、テレビドラマで幅広く活躍する。5月29日にソロデビューアルバム『My Bouquet』をリリース。6月11日と12日にTOKYO DOME CITY HALL、6月14日にNHK大阪ホールで初のソロコンサートを開催する。■撮影/矢西誠二、取材・文/濱口英樹※週刊ポスト2019年6月7日号
2019.05.31 07:00
週刊ポスト
アルバムは5月29日に発売
解散コンサートから41年 伊藤蘭が音楽活動を再開する理由
 昭和を代表するアイドルグループ、キャンディーズの「ランちゃん」として絶大な人気を集め、女優として活躍してきた伊藤蘭が、令和の幕開けとともにソロ歌手としてデビューする。後楽園球場における伝説の解散コンサートから41年、アルバム『My Bouquet(マイ ブーケ)』が5月29日に発売される。 伊藤に音楽活動再開の動機を聞いた。「お芝居の道に進んでからは無我夢中で、その間に結婚があり、子育てもありで、歌うことまで気が回らなかったんです。でも昨年、歌ってみない? と言われた時に『この先、こんな風に言ってもらえる機会もなくなっていくだろうし、年齢的にもラストチャンスかな』と。 キャンディーズは3人でしたから、1人で歌うことに不安もありましたけど、歌の世界で新しい自分と出会えるような気がして、今だからこそ挑戦しようと思ったわけです」 アルバム制作は昨年の夏にスタート。「今の伊藤蘭に歌ってほしい曲」が110曲も作られ、その中から、井上陽水、宇崎竜童・阿木燿子夫妻、トータス松本など、豪華作家陣による11曲がセレクトされた。「花束」を意味するタイトルが示すとおり、多彩な楽曲が収録されているが、選曲のポイントは「もう一度、聴きたくなる曲」だったという。「キャンディーズ時代は用意された曲を次々とレコーディングしていく感じでしたが、今回はスタッフの方たちと一緒に時間をかけて作り上げることができました。制作に関わっている人たちを間近に感じられて、一つひとつの工程を実感できたのが嬉しかったですね。 久しぶりのレコーディングで、最初は声帯がまだ寝ているかな? という感じだったんですが(笑い)、少しずつ感覚が甦ってきました」 アイドル時代にも作詞・作曲を手がけていた伊藤だが、今回も3曲の作詞にチャレンジしている。女優としてのキャリアが、歌や作詞に与えた影響はあるのだろうか。「お芝居をする時は、言葉がどう伝わるかを常に意識していますから、歌でも言葉をより大事にするようになりましたね。 作詞については、3曲とも曲が先にできていましたので、メロディから刺激を受けて、世界観を決めて。自分のイメージを言葉で伝える作業は難しいながらも本当に楽しくて、時間を忘れて没頭しました」●いとう・らん/1955年1月13日生まれ、東京都出身。1973年、キャンディーズのメンバーとして歌手デビューし、NHK紅白歌合戦に3回出場。1978年に解散し、一時芸能活動を引退。1980年、映画『ヒポクラテスたち』に出演し、女優として復帰。以後、舞台、映画、テレビドラマで幅広く活躍する。5月29日にソロデビューアルバム『My Bouquet』をリリース。6月11日と12日にTOKYO DOME CITY HALL、6月14日にNHK大阪ホールで初のソロコンサートを開催する。■撮影/矢西誠二、取材・文/濱口英樹※週刊ポスト2019年6月7日号
2019.05.29 16:00
週刊ポスト
松田聖子をプロデュースした若松宗雄氏
松田聖子を発掘した若松宗雄氏、テープを聴いた瞬間の衝撃
 昨年の紅白歌合戦で松田聖子は『風立ちぬ』(1981年)、『ハートのイアリング』(1984年)、『天国のキッス』(1983年)、『渚のバルコニー』(1982年)をメドレーで披露し、往時を知る視聴者を狂喜させた。今なお現役で活躍を続ける稀代のスターはいかにして誕生したのか。彼女を発掘し、1980年代の楽曲のほとんどをプロデュースした若松宗雄氏が語る。「きっかけはCBS・ソニーと集英社が主催したオーディションでした。各地区大会に出場した人のカセットテープを片っ端から聴いていたら、その中に桜田淳子の『気まぐれヴィーナス』を歌う聖子のテープがあった。聴いた瞬間、とんでもなくいい声に出会ったと思いました。彼女の伸びやかで透明感のある歌声には、聴く者の心を捉える感性があったんです」 若松氏はすぐに本人と面談。ルックスや育ちの良さにも惹かれてスカウトするが、父親の猛反対や所属事務所の事情もあって、デビューまでに2年の歳月を要することになる。久留米出身の少女が念願の歌手になれたのは1980年春のことであった。「デビュー曲『裸足の季節』の作曲は、私が気に入っていた『アメリカン・フィーリング』(サーカス)を手掛けていた小田裕一郎さんにお願いしました。聖子にはオケ録りの段階から立ち会わせましたが、メロディを2~3回聴けば覚えてしまうくらい、呑み込みが早かったですね」◆ずば抜けていた歌に対する執念 1980年7月にリリースされた第2弾『青い珊瑚礁』の大ヒットで一躍トップアイドルとなった松田聖子は『風は秋色』(1980年)以降、オリコンで24作連続1位を獲得。アルバムでも高い評価を受け、メガヒットを連発する。その偉業を支えた若松氏の戦略はいかなるものだったのか。「これは私の持論なんですけど、音楽的な人は親しみやすく娯楽性を持たせた方がいい。そうすれば受け手がほどよい印象を持つからです。逆に大衆的な人は音楽的な要素を入れないと飽きられてしまう。聖子はアイドル路線でしたから、ユーミンや細野晴臣さんなど、音楽的な感性が鋭い人たちに作曲をお願いしつつ、文学性を備えた三浦徳子さんと松本隆さんに詞を書いてもらったわけです。 あと重視したのはサウンド。『SWEET MEMORIES』の作曲・編曲を手掛けた大村雅朗さんには多くの作品でアレンジをお願いしましたが、彼の力がなければ、あれだけの実績は残せなかったでしょう」 来年でデビュー40周年を迎える松田聖子は唯一無二の存在として走り続けている。多くの歌手を手掛けてきた若松氏に、大成するために必要な条件を尋ねると、こんな答えが返ってきた。「大事なのは本人の資質。それから歌に対する執念です。聖子には『何が何でもこの世界でやっていく』というエネルギーがあった。ほとんどの歌手は、売れてくると周囲に口を出す人が増えてきて、何を信じたらいいか分からなくなってしまうんですけど、彼女は一切ぶれなかった。それも成功の要因だと思いますね」【プロフィール】わかまつ・むねお/1940年生まれ。1969年CBS・ソニーに入社し、制作部門でキャンディーズ、松田聖子、伍代夏子、藤あや子、PUFFYらをプロデュース。1998年に独立し、現在はエスプロ代表取締役。◆取材・構成/濱口英樹※週刊ポスト2019年4月26日号
2019.04.18 07:00
週刊ポスト
音楽プロデューサーの酒井政利氏
山口百恵や南沙織ら手掛けた酒井政利氏、成功を生んだ戦略
 日本が高度経済成長に沸いた1970年代。カラーテレビの普及もあって、スターは映画ではなくテレビから生まれるようになる。そんな時代に若者たちを熱狂させるアイドルを次々と手掛けたプロデューサーがいる。1968年に設立されたCBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)に一期生として入社し、当代一のヒットメーカーとして活躍する酒井政利氏である。「60年代まで日本ではアイドルという概念はなく“歌う青春スター”みたいな言い方をしていました。しかも当時は東芝の奥村チヨや黛ジュン、コロムビアのいしだあゆみや辺見マリなど、アダルト向けの女性歌手が人気を集めていた。だから私はあえてターゲットを中高生にして、他社とは違うヤングポップス路線を狙ったのです。 ちょうどその頃、一緒に仕事をしていた寺山修司さんが『素材は生の方がいい。添加物を加えすぎてはダメだ』とおっしゃっていたんですが、それは歌い手のリアリティを大事にして、素材の良さを活かすということ。そんな時に出会った南沙織に新しい可能性を感じた私は、彼女の日常を歌にして、日本初のアイドルを作ろうと決めたわけです」 オーディションに合格して、返還前の沖縄から上京した南は1971年に『17才』でデビュー。理知的な美貌と小麦色に焼けた肌、抜群のリズム感は従来の歌手にない清新な魅力に溢れており、シンシア(彼女のクリスチャンネームにちなんだ愛称)は酒井氏の狙いどおり、日本における“アイドル歌手”第1号となる。「彼女は自分の主張を持っていて言葉も綺麗。そういう意味では女子アナのイメージに近かった。曲に関してはリアリティを引き出すために、少しでも時間があれば本人と話をして、“沖縄の海が恋しい”と聞けば『潮風のメロディ』(1971年)を、“東京でまだ友達ができない”と聞けば『ともだち』(1972年)を作るなど、彼女がその時々で感じていることを歌にしていきました。つまり成長の記録です。 スターの宿命として、1972年にはマネージャーとの交際が報じられましたが、そのスキャンダルに対抗すべく、当時すでに死語であった『純潔』をタイトルにしたこともありました」◆「時代と寝た女」と「ソニーの白雪姫」 南はその後も18歳で『傷つく世代』(1973年)、20歳で『女性』(1974年)を歌うなど、実年齢に応じた私小説路線を展開。同世代を中心に圧倒的な支持を集めたが1978年に引退し、写真家の篠山紀信氏と結婚する。そのシンシアプロジェクトの方法論を継承したのが1973年にデビューした山口百恵であった。「彼女の歌づくりでも世代をテーマにしましたが、デビュー曲『としごろ』はやや重かったのか、売れ行きが今ひとつでした。そこで第2弾の『青い果実』からは、性の目覚めをストレートな言葉で歌う“青い性路線”に変更。これが成功したことで、先行する森昌子、桜田淳子に追いつくことができたのです」 以後、数々のヒットを放ち、「時代と寝た女」とまで称された山口百恵を、酒井氏は1980年の引退までプロデュース。その一方で天地真理や浅田美代子など、あまたのトップアイドルの楽曲制作にも関わっている。「天地真理に初めて会ったのは、映画関係の知人からの依頼で行なった、ソニーのスタジオでのオーディションでした。その時は『小さな私』という曲を歌ったのですが、それを改題したのがデビュー曲の『水色の恋』(1971年)。キャッチフレーズは歌詞にちなんで“ソニーの白雪姫”にしました。当時は歌謡曲路線の小柳ルミ子と、ポップス路線の南沙織が人気を集めていたので、その2人の中間に位置づけて、三人娘として売り出したのです」 そしてもう1組、伝説のアイドルグループについても聞いておかねばなるまい。メンバーの伊藤蘭が5月末にソロデビューすることが話題となっているキャンディーズだ。「私が本格的に担当したのは解散表明後に制作された『わな』(1977年)と『微笑がえし』(1978年)ですが、それには伏線がありました。前任者が売れっ子の作家に要請されて、3人を酒席に呼び出したことがあったのです。 彼女たちは丁重に断わったようですが、所属事務所から猛烈な抗議が寄せられ、その詫び役に引っ張り出された私が担当することになったわけです。“ファンへの感謝”をコンセプトにした『微笑がえし』はフィナーレを飾るに相応しい楽曲になったと自負しています」【プロフィール】さかい・まさとし/1935年生まれ。日本コロムビア、CBS・ソニーを経て、現在はエグゼクティブプロデューサーとして活躍中。レコード業界初の文化庁長官表彰を受賞。◆取材・構成/濱口英樹※週刊ポスト2019年4月26日号
2019.04.16 07:00
週刊ポスト
浅草で人気の美女軍団 「虎姫一座」の1日に密着
浅草で人気の美女軍団 「虎姫一座」の1日に密着
 東京・浅草で中高年のハートをわし掴みする美女軍団「虎姫一座」。11人の女性と2人の男性で構成され、現在上演中の演目は、戦前・戦後の昭和歌謡特集『VIVA! 昭和歌謡カーニバル!!』と『キャンディーズづくし!! 絶対カーニバル!!!』だ。2010年12月、サザンオールスターズなどが所属する大手芸能事務所アミューズの大里洋吉会長(72)の発案で結成されたレヴュー集団だ。虎姫一座の1日に密着した。 総勢13人の虎姫一座のメンバー。東京の大衆芸能発祥の地・浅草にある「アミューズカフェシアター」(台東区浅草2-10 ドン・キホーテビル7階)を拠点に活動中。 PRのために浅草周辺を“チンドンパレード”。方々から「チラシ置いてきな」「頑張れよ」と声が掛かる。 各演目は1時間半ほど。テンポのよい構成と演出で、あっという間に時間が過ぎていく。コミカルなタップダンスを披露する笠置シヅ子の「買物ブギー」は結成以来の十八番。ショーの前後には、一座のメンバーがカフェのホールで接客してくれる。チケットはワンドリンク付きで大人5000円(税別)だ。『VIVA! 昭和歌謡カーニバル!!』の名物「フレンチカンカンメドレー」。続いて「青い山脈」「高原列車は行く」などが歌われると、客席も一体となり大合唱が起こっていた。 キャプテンのなお(右)は『ナイツのちゃきちゃき大放送』(TBSラジオ、土曜9~13時)でもコーナーを持つ一座のフロントマン。他の2人は若手のゆい(中)とはな(左)。メンバーが食べる賄いは肉たっぷりの男メシ。「食べないと体がもたない!」(なおさん)。 日替わりでくじ引きで選ばれた観客が次に披露する曲を選ぶコーナーでは、どの曲も懐かしさにあふれている。可愛く清楚なだけではない。時にはエネルギッシュに笑いと歌とダンスで客席を魅了し、会場は一体感を増していく。 クライマックスには、メンバーがステージから客席に降りて一緒に合唱。この時、ショーは最高潮の盛り上がりを見せた。◆とらひめいちざ/2010年結成。日本のエンターテインメント発祥の地、浅草六区を拠点に、昭和歌謡のレヴューショーを上演し3400回を超えるロングラン公演を成功させる。歌とダンスはもちろんのこと、パントマイム、和太鼓、アクロバットなどを採り入れた、懐かしくて新しいショー構成で人気を博している。※週刊ポスト2019年3月8日号
2019.03.02 16:00
週刊ポスト
浅草で人気の「虎姫一座」 平成育ちが届ける昭和歌謡の世界
浅草で人気の「虎姫一座」 平成育ちが届ける昭和歌謡の世界
 歌あり、踊りあり、寸劇ありの「昭和歌謡」のレヴュー(ショー)に引き込まれ、青春時代や子供の頃にタイムスリップ! リズミカルな笠置シヅ子のブギでは手拍子が、エノケンのコミックソングでは笑いが、キャンディーズの曲では大きな声援が飛び交っていた。「懐かしさに胸が締め付けられる」「体に染みついていたリズム、メロディ、歌詞が甦る」「若い女性が昭和歌謡をやる姿が可愛らしい」「なんだか元気になる」「とにかく楽しい」……中高年の客から次々とそんな声が挙がる。 ステージに上がるのは虎姫一座。2010年12月、サザンオールスターズなどが所属する大手芸能事務所アミューズの大里洋吉会長(72)の発案で結成されたレヴュー集団だ。現在のメンバーは女性11人に男性2人で、女性のほとんどは平成生まれ。 現在上演中の演目は、戦前・戦後の昭和歌謡特集『VIVA! 昭和歌謡カーニバル!!』、『キャンディーズづくし!! 絶対カーニバル!!!』、1970年代~1980年代に世界的にヒットしたグループ・ABBAの特集『THANK YOU FOR THE MUSIC~Wb are Dancing Queens!~』の3つ。それらを合わせて月に40回ほど上演している。東京・浅草六区に定員80人の専用劇場を置き、結成以来約3400回公演、20万人以上を動員してきた。 客の多くは昭和歌謡を肌で知る中高年世代。一度観に行くとやみつきになる人も多く、なんと900回以上も通っている70代の強者もいる。100回以上足を運んでいる人も数十人はくだらない。 各演目は大里氏が総合演出を、振り付けはPerfumeらを手掛けるMIKIKO氏が担当している。過去、一座から世界的に有名なエンタメ集団シルク・ドゥ・ソレイユに移籍したメンバーもいることが物語るように、ステージのレベルとクオリティは高い。「最近はYouTubeなどで知って、面白いと思って訪れる20代の若い女性のお客さんも増えています」と語るのは創設以来のメンバーで、現在キャプテンを務めるなおさん(30)。 平成生まれのメンバーも、「知らない曲なのに、最初からノリやすかった」(はなさん・18)、「初めて聴いたのに、なぜか懐かしさを覚えた」(ゆいさん・22)と言う。現在、若者たちの間で昭和歌謡を好む人が増えているというが、虎姫一座はその象徴かもしれない。「偉大な芸人の方たちを輩出したレヴューの本場・浅草で活動することに大きな意味があると思います。人間味のある街で、私たちも街に育ててもらっている感覚があります」(なおさん) 世代を超え日本人に刻み込まれた昭和歌謡のリズムとメロディは、平成の次の時代にも受け継がれていくだろう。◆とらひめいちざ/2010年結成。日本のエンターテインメント発祥の地、浅草六区を拠点に、昭和歌謡のレヴューショーを上演し3400回を超えるロングラン公演を成功させる。歌とダンスはもちろんのこと、パントマイム、和太鼓、アクロバットなどを採り入れた、懐かしくて新しいショー構成で人気を博している。撮影■小倉雄一郎 取材・文■鈴木洋史※週刊ポスト2019年3月8日号
2019.02.27 16:00
週刊ポスト

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